【神崎郡千代田町黒津、馬場地区】

歴史と異文化理解Aレポート

S1−17 944833 宋彩鳳

S1−17 944834 高瀬代代人

 

バスを降りて、とり敢えず地区長さんのところへ向かおうとして、漁協へ向かったが誰もおらず、通りすがりのおばさんに地区長さんの家を尋ねたところ、そこから数分程歩いたところにあるらしいので、そこへ向かってみた。

 そこには地区長 江頭さんの奥さんらしき人がいて、地区長さんに会おうとしたのだが、地区長さんは不在で、行方が分からないので、地区長さんに会うのを諦めざるを得なかった。

 いきなり地区長さんが不在、居場所が分からないということで、最初から精神的に少しダメージを食らってしまったが、何もしないまま終わる訳にもいかないので、とり敢えず馬場付近の家の人に、この近くの田について詳しい人はいないのかと尋ねてみたところ、その付近にいるとのことで、その人の家の場所を教えてもらい、早速その家へと向かった。

《古老その1》宮原 巌さん(72才)

 そこには新築のなかなか立派な家があった。私達が訪ねると玄関にまず宮原さんの奥さんが現われ、この辺りの田について聞きたいのだがというと、巌さんを奥の部屋から呼んだので、早速マニュアルに載ってある通りに尋ねると、とりあえず上がりなさいといわれたので、ここではその言葉に甘えることにして、その辺りの田のしこ名を尋ねた。すると、1つ1つ確認するように、いくらかのしこ名を教えて下さった。それから、水利についても尋ねてみたが、昔の水路や橋の名前は覚えていないようであった。しかし、それとは別に、昔の水源地について聞くことができた。

 昭和41年頃迄は、筑後川から直接水をとっていたのだが、その頃から建築業者が川の砂を取ってしまい、その為に川底が深くなり、海水が上がりやすくなり、そこの水は使えなくなってしまったので、高地から来る地下水、或いは基盤整備以降設置された県営水路から水を取っているそうだ。また、昔用いていた肥料は下肥だったそうだ。また、現在では、裏作としてもち米と麦を7:3、その麦も小麦とビール麦を6:4の割合で作っているらしい。

 いきなりおしかけたのに、お茶と焼き海苔まで御馳走になってしまった。申し分けない反面、大変嬉しくもあった。

 また、そこで、坂井誠さんという、これもまた田に詳しい人を紹介して貰ったので、私達はそこへ向かうことにした。

《古老その2》坂井 誠さん

 宮原さん宅からおよそ10分位歩いたところにその家はあった。こちらも家を訪れるのは2度目なので、1度目と同じ要領で質問に入った。

 まず、この家の近辺のしこ名について尋ねた。すると前回同様に思い出し、確認しながら幾らかのしこ名を教えて下さった。また、坂井さんによると、黒津というのは、馬場、下西、黒津の3つの部落をまとめた領域で、昔は千歳村という名前があったらしい。

 次に水利について尋ねたが、前回の宮原さん同様、名前は覚えていなかった。ただ、水門は筑後川沿いに何ヶ所もあったらしい。というのも、坂井さんの話しによると、黒津の中心部分を除いたドーナツ型の地域はほかより土地が低く、雨が降ると高地から大量の水が流れて来るし、旱魃になると逆に水がなくなってしまうので、前者の場合は水を掃き出す為で、後者の場合は川から水を取り入れる為である。また、昔用いていた肥料は、干した鰯や水路の泥を乾燥させたものを使用していたらしい。

 最後に、昨年の大旱魃について尋ねてみたところ、川添いのところは川の水を、塩分のないときに汲み入れ、それを利用し、またそれを高地にもポンプで送っていたらしい。特に吉野ヶ里周辺では、水を汲み入れるポンプが壊れていて、塩分を多量に含んだ水が一帯の田に入ってしまい、田一面が真っ赤になるという酷い塩害を被ったらしい。

 また、ここで、黒津の南部の田について詳しいという人を紹介してもらったので、そこへ行くことにした。

《古老その3》大石 亘さん(67才)

 この大石亘さんは、坂井さんから紹介を受けた人ではないが、坂井さんから紹介を受けた人のところへ向かってみると、玄関に「忌中」の貼り紙がしてあり、少々入りづらかったので、その辺りで田に詳しい人はいないかと尋ねたところ、この大石さんの名前が出てきたという訳である。

 ここでも、前回、前々回通りまず田のしこ名から尋ねると、その近辺のしこ名を教えて下さった。また、水利について分かったことは、この近辺の水路の名前は、その水路を利用していた田のしこ名で決まっていたらしい。

 次に、あおについてであるが、これは十町毎にてっかん水機という機械を取り付け、潮の満ち引きによりあおを取り入れていたらしい。他は、昨年の吉野ヶ里の塩害をはじめ、前の二人とだいたい同じ内容であった。

 最後に将来の農業の姿について尋ねてみたが、彼の意見では少数の大きな農家が、他から田を委託されて農業をしていくのではないかということであった。

《最後に》

 余談であるが、今回の現地調査は、はっきり言って最初の古老(宮原巌さん)がつかまるまでは、(特に地区長さんが不在だと判明した時点では)もうダメなんじゃないかなと思いました。佐賀に来るのは初めてだったし、着いたところも田舎だったし、交通機関もこれといったものが見当たらず、このまま置いていかれたらどうしようかとも思いました。しかし、実際家を訪ねてみると、みんな親切に応じてくれて、本文中には書いていなかったけれども、3軒とも飲み物や食べ物を出してくれて、恐縮していた反面、すごく嬉しかったです。



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