【神埼郡千代田町古城地区】

S1−17 944844 土井 健司

S1−17 944850 長濱 浩之

 

佐賀での現地調査報告

 

 自分たちは2日間佐賀の古城という所に田ん中のしこ名を調べにいった。

 初日の1月22日、1月18日の講義で、区長や自治長に尋ねに行くと良いことがわかったので、区長である隅田さんの家を訪れた。隅田さんは、その日の朝や一週間前にも同じ九州大学の学生が来たと言っていたので、自分たちは聞き易いだろうと思っていたが、古城には田ん中のしこ名はない、古城は古城です、と言った。そこで隅田さんは昔からずっと古城で農業をしている人のところへ電話をかけたが、その人も田ん中のしこ名はないと言った。自分達はそこで古城の中心に行った。そこで野口嘉彦さん(昭和15年生まれ)の人に田ん中のしこ名について尋ねた。しかし野口さんもわからないと言ったが、親切にも家の中に資料があるかもしれないと言い、数分間家の中を探してくださったが、資料はなかった。野口さんは中座浩一さんという人なら知っているかもしれないと、中座さんの家に電話をしてくださったが、中座さんは家に不在だった。初日はいろいろな人に親切にしてもらって、とてもうれしかった。しかし田ん中のしこ名が一つもわからなかったのでそのことだけが残念だった。区長の隅田さんや野口嘉彦さん、また道を教えてくれた人達に心から感謝したいと思った。

 2日目の1月22日、この日は歴史と異文化理解の講義は休講で時間もたっぷりあったので、また佐賀に田ん中のしこ名を調べに行くことにした。目的は野口さんに紹介してもらった中座浩一さんに聞きに行くことと、他の人からも田ん中のしこ名を聞くことだった。初日に比べ、二度とあって道にもあまり迷わず行く事ができた。早速中座浩一さんの家へ行った。しかし、誰もいなかった。仕方ないのでまた古城の中心地に行って一軒一軒聞いてまわることにした。しかし平日の昼とあってか、不在の家が多かった。そこで原田一男さんという人に出会った。しかし原田一男さんは老人であったが田ん中のしこ名については全くわからないと言った。しかし原田一男さんからは田ん中のしこ名以外でとても興味のある話をたくさん聞いた。現在古城を流れている川に、南北朝時代のころあたりに、豪族がでじろやかたというものを建て、それから現在の古城という地名がついたらしい。しかし河川工事と圃場整備で地形が昔と全く変わってしまい。それから田ん中のしこ名全然使われなくなり、昔から古城に住んでいるが、田ん中のしこ名については全くわからないらしい。80歳くらいのお年寄りなら覚えているかもしれないが、そのようなお年寄りは古城にはもういないと言われた。そこで原田さんにお礼を言って、再び中座浩一さんのところへ行ったが、また不在だった。2日目も田ん中のしこ名は一つもわからなかった。そして2日目もいろいろな人達に親切にされ、とてもうれしかった。特に原田一男さんには心から感謝したいと思った。

 水利についてはいくつかのことを聞くことができた。まず古城上神代あたりの水源はほとんどが田手川であったそうだ。田手川は比較的水量が豊富であった。また水をめぐっての争いが昔はかなり多くあったそうだ。田ん中に水を入れさせないようにしたり、時には人を殺す程のケンカもあったらしい。去年の水不足の時には、古城あたりは直接田ん田手川から取り入れていたらしいが、他の地区ではポンプアップで田ん中に水をひいていたそうだ。また、10丁に一つほど灌水機を導入していた。このあたりでは良田、悪田の差はなかったらしい。圃場整備前は反当70〜80俵ぐらいで、戦前の化学肥料が入る前は反当60俵以下だったらしい。

 2日間、佐賀の人達には大変お世話になり、本当に感謝している。佐賀の人達には迷惑をかけたと思うが、嫌な顔もせず、自分達の質問にも丁寧に答えてくれて、とてもありがたいと思った。田ん中のしこ名は得られなかったが、佐賀の人々の親切な気持ちが感じられたのは良い事だったと思う。



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