歴史と異文化理解レポート

湯前亘裕

吉田公彦

八田本村  石井氏

 深川薫さんがお仕事が忙しく都合がつかないということなので、地元では先生と呼ばれている石井氏を紹介してもらいました。

 昔とは大分地形が変わっているので思い出しづらそうでした。また、この辺りは昔海底だったそうで、圃場整備中の堀を見せていただき2m程掘り起こしたところに貝殻が大量に見つかりました。雨が降っていたため、十分に見ることは出来ませんでしたが地形の変化についての確認になりました。

 村の水利についてですが、八田本村の水は全て多布施川からひいているとのことでした。この水路は「なるとみ ひょうご」という人物によって作られたものらしく、ここからきた水はこの近辺全ての村(八田本村、下武、野々古賀etc)に共有されていたようです。またこの水路は水量が豊富なため、石井氏の記憶によれば水について困ったことはなく、また聞いたこともないとのことでした。「水をめぐる争いなどは?」との質問にははっきり「ないねえ」との答えを頂きました。共有山林については、「知りません、そんなのあったかなあ」とのことでなるほど、見渡してみても山林らしきものの跡は見当たりませんでした。村の境界についての地図への記入を依頼したところ、八田本村近辺はしきりに首をかしげて、思い出しづらそうでしたが、本庄、鍋島町方面については記入していただけたので、自分たちの調査区域外ではありますが、地図をつけておきます。

 全体的にまとめておきますと、八田本村は水には比較的恵まれ他の村との目立った争いもなかったように思われます。田んぼのしこ名については、あまりかんばしい成果は上げられませんでしたが、元々しこ名が少なかったようなこともおっしゃっていました。

 以上の報告は、同じ自分たちの調査区域である八田村と多少の矛盾がありますが、これはこの調査として報告しておきます。

(第1部完→第2部.八田村へ行こう編へ続く)

 

八田村   富崎氏

 調査の協力依頼をしていた富崎逸志さんがより詳しく知っていると紹介してくださった。お兄さんの恒男さんにお話を聞きました。恒男さんの話によると、三年程前にも同じような調査をうけたことがあるらしく比較的スムーズに話は進みました。

 まず水利についてですが、昔は水は八田江から引いていたそうですが、八田樋門ができてからは地図に書いてある方向からの依存度が高くなってきたそうです。そして、水不足はなかったかとの質問にはあったとの答えで、その時の対応策はとの質問にはそこまでひどくなかったらしく、節水程度で済んだとのことでした。この水路にそって大体の村の境界が定まっていたらしくそれを地図上に示しておきます。(赤の蛍光線)また、その水路には様々なしこ名があり、それがそのまま田んぼしこ名となっているとのことでした。さて、そのしこ名についてですが、その3年前の調査の時につくった地図があるというので見せて頂き、恒男さんが覚えていらっしゃる限りのしこ名は地図に記すことができました。共有地としては住吉神社があり、その周辺には元船津、くらまえなどかつてにぎわっていた跡がうかがえるものもありました。

 最後にまとめておきますと、この辺全体的には水不足は少なかったそうです。また争いというような話は聞きだせませんでした。



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