歴史と異文化理解A 現地調査レポート/本庄町正里

<調査者>

林田さおり

福嶋貴子

冬野愛子

○正里(しょうり)

・話を聞いた人 重松新さん 昭和11年生まれ

        塚原良次さん 大正13年生まれ

 

・行動記録

 正里でバスを降りる。家はわりとすぐに分かった。お話を聞こうと思って訪ねた生産組合長の重松さんが自分では農業をやっておらず、年齢も比較的若い方だったので、ちょうど成人式の行事で公民館に来ていた塚原さんを呼んでくださり、二人からお話を聞くことになった。

まず、私たちが持ってきた地図を見ながらしこ名や堀の名前を聞く。最近は区画整理が行われ、昔の呼び名を使わないので話していくうちにだんだんと思い出してきた様子だった。区画整理で川を境に二つに村が分けられたらしい。(現在では城西12区となっている。)昔の水路の水は飲料水にも使用されていた。しかし、昔の水路の姿は全部なくなってしまったそうだ。区画整理によって土地を更地にして、碁盤のように現在は分けられている。湿田はなく、比較的良田の多い地域で、ほとんどの田で裏作が可能であり、正里では米の裏作にビール麦を作っているということだった。

旱魃について聞いてみると、このあたりは北山ダムの水をひいているので水不足はなく昔も旱魃の影響はなかったらしい。さて、本題のしこ名についてだが、このあたりでは、堀に名前がついていてその周辺の田を堀の名で呼んでいた。由来については例えば、地蔵道ならばそこに地蔵があったからとか、権現田ならば、近くに権現さんがあったからなど、わりと簡単なつけ方だった。

 

区画整理がだいぶ進んでいて、農家の人も自分の田の名ぐらいしか知らないということだった。話をすすめていくうちに、どうやら本庄の公民館長さんが、そういうことについて詳しいらしく、その人にお話を聞くことにした。親切にも重松さんがその方の家に車で送ってくれた。

(上飯盛のレポートに続く)



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