歩き、み、きく歴史学/現地調査レポート/佐賀市本庄町/末次・中島 <調査者> 鍵下麻記 石田典子
私たちはこの講義において佐賀市本庄町末次、中島という地の調査に行きました。この調査にはその地の農協の方である古川勝徳さん方へお世話になることになりました。しかし、当日、ご本人が都合が取れないため、そのお父様、文徳さんにお伺いいたしました。 <しこ名>別紙の地図(佐賀県立図書館所蔵)にある程多くのしこ名が分かりました。高礼寺というお寺の近くの田は“高礼寺”と呼ばれていました。また、土井付近の田は“土井側”といわれ、猫堀橋の近くは“猫堀”といわれ、地にいわれがあるものが多かったです。 <ほり、水路、井樋> 堀、水路、井樋も地図に多く書き込むことができました。“ほり”のことは“ほい”というそうです。堀も水路も井樋もそこにある田んぼのしこ名と同じでした。例えば田のしこ名が“猫堀”というところはその名の通り“ほり”は“猫ぼい”でした。 <村の水利のあり方> この中島は淡水をひいているそうです。佐賀市から城内のお堀で多布施川の水を取り入れているそうです。 時期:調整されているが6月から9月が多い 時間:ずっと 誰が:村全体 また、井樋番手当ては昔は交互にしていたそうです。非灌漑時期のゴミ取りは戦前は1年1回、戦後も昭和30年まではしていて、田の肥料としてゴミを使っていたそうです。ほりやゴミの所有権は、今はそこの田んぼの所有者が持っているそうです。 <1994年(平成6年)の未曾有の年> このときだけ、個人でポンプを買ってそのポンプで水を引いていたそうです。南部は酷かったようですが、ここではあまり酷くなかったそうです。 また、この大干ばつが30年前の出来事だったら、と伺ったところ「被害はもっと酷かっただろう。昔は川幅が狭くて水が流れるのが少ないし、上流の人が水を止めるからあまり水も流れてこなかっただろう。」というようなことをおっしゃっていました。 <村の範囲> 別紙の地図に橙色でラインを引きました。田んぼごとにはっきりとは分かれていないようです。また、村の共有の林として“高礼寺”という林があるそうです。 〜おまけ〜 <昭和28年の大水害> この時は、排水がかなり悪く、1週間くらい水びたしだったそうです。だから自然排水しかできなかったようでうす。今でもこの土地はあまり排水は良くないそうです。 <村祭り> 8月には祇園祭、5月と9月には部落の戸主がお宮の御堂に集まって行う「おこもり祭」、11月23日には、お宮で神主さんの名義になっている田(実際は村が共有しているもの)の収入で村祭りが行われるそうです。これらの祭りはすべて豊作をを願うものだそうです。 <感想> 田やほりの名前を尋ねるとき、骨の台帳(かなりの年代物に見えた)を出してきて下さったので、正確なしこ名に調べることができました。佐賀平野といえば福岡からすぐの場所なのに言葉も文化も随分違うものだなあと思いました。特に農業自体が生活の中心になっているのだなあと思いました。 |