佐賀現地調査レポート/佐賀郡東与賀町/田中新村

<調査者>

中尾裕子

山崎弥生

 

 今回私たちは嘉村春男さん(大正9年生まれ)という方にいろいろお話を聞かせて頂きました。

 

 

     用水源は昔は自然配水といて山から水を引いていた。当時、“ナリドメ ヒョウゴ”さんという方がどの田にも水が配水されるようにしていた。その際、頭首こでせききって分水していたそうです。現在は北山ダムというところから水を引いているそうです。

 

 

     94年の大干ばつのときは、北山ダムだけでは間に合わないので、筑後川の水をせき止めて、逆流させた淡水をとり何とか乗り切ったそうです。

 

 

     水を海から取り込むときは、大潮のときに水を流し込んで小潮のとき、大潮で流れ込んだ水が海へ戻ってしまわないようにせき止めるそうです。このとき、干満の差は約5mぐらいであるそうです。

 

 

     水に関しての約束事は“なるだけ汚物を川に流さない”ということだそうです。小さい頃から汚物を川に流すと水神さんにたたられる、と言われて育てられたそうです。川の水が飲料水だったので、みんな川の水を大切にし、いつも水はきれいだったそうです。

 

 

     地図中の八丁樋管というところでは、昔水門は横へ開く仕組みだったけれども今は上へ開く仕組みになったそうです。

 

 

     水争いに関しては、下古賀と大授一工区という土地に約80cm1mの田面差があったので、水争いがあったそうです。下古賀の方が高く、水は大授一工区のほうへと流れていき、下古賀が不利になるので、水の問題について両者が対立していたそうです。

 

 

     また、神社にも位がついていて、一番良いものはカンペイ大社、次にカンペイ中社、カンペイ小社、と下がっていく。住吉社などは郷社にふくまれ、1格上がると村社になり、イサガエなどというものがある、ということも教えてくれました。

 

 

     私たちは佐賀に着いて、外で仕事をしておられたおじいさん、おばあさんなどにしこ名について尋ねたり、そういう事に詳しい人を聞いたりしていろいろな人を訪ねました。しかし、“そんなものはない”と言われたり、“そういうのは役場に行けば分かる”などと言われ追い返されてしまうことも何度もありました。また、昔はたくさん覚えていたけれど、今は使わないので忘れてしまったという方もいました。それに、よく知っているような方も、昼は仕事に出ていていないというのが多かったです。しかし、新村でお話を伺った嘉村さんは長い時間であるにもかかわらず快くお話してくださいました。搦西では時間もなく、詳しい方にも会えず、ほとんどお話を聞くことができませんでした。

   私たちは今回のような現地調査というものは初めてで戸惑いだらけでしたが、とて

  も良い経験になったと思います。



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