現地調査レポート/佐賀郡東与賀町/田中 調査地名 田中 調査協力者 木原繁さん(75) 雪竹照信さんの奥さん 40歳くらい 重松日出男さん(83) 村役場働いていた方々 1)しこ名について 一ヶ里田、雁田、大入江(ウーエ)、ミヤウラ、お蝶さん屋敷、堺橋(サキャアバシ) 馬洗場(マーライバ)、ヒビョウイン、ドオデ道、ネギダイ、北田、北ウラ ・集落内の田を屋敷田。家の周囲の田をネギダイ。集落の外の田を外田(外田)と呼ぶ。(だいたいどの村も共通。) ・雁田については興味深い。昔、江戸時代のころちょうどその土地では鍋島の殿様の雁の狩猟が行われ、殿様がやってくると皆、農作業の途中でも土下座してひれふしたということである。 ・お蝶さん屋敷とはその名の通り、お蝶さんという人が持っていた土地だからである。 ・ヒビョウインというのは昔、その場所に赤痢などの隔離病棟が収容されていたことからその名がついたようである。 2)村の水利のあり方について インタビューをした木原さんは東与賀の圃場整備の責任者的立場にありかなり詳しい話を聞くことが出来た。 @ 昔はどうだったか 東与賀のクリークは大体佐賀市内を通ってくるものであった。水を多用する田植え時期になると水争いがかなり激しくなったそうで、争いは東西同士(例えば田中VS飯盛、田中VS下古賀)だけではなく、南北同士(田中VS作出)といった争いも珍しくなかった。そのため佐賀の護国神社わきの水門に行き水泥棒から守るべく監視をしたのであった。 A 八田江ができて このような水不足がちであることを改善するべく作られたのが八田江である。八田江は 人口の川のため田よりも高い位置を流れている。また昨年の旱魃時にはここから水を取った。あお取水(潮位増によって上がった川の淡水を取ること)の方法についてはまた後に述べることとする。 B 圃場整備以降 旱魃時以外、今では通常北山ダムから流れる農業幹線用水を稲作に用いる。この用水は佐賀球場わきに流れてきて東与賀一体に網の目のようにながれているそうだ。 3)昨年の旱魃時の取水法 一緒に提出した国土地理院の地図(佐賀県立図書館蔵)を見ていただきたい。 通常時はEの水門は常に閉じられており海水が上がってくるのを防止しているが昨年はこの水門を開け、海水を上らせることにより淡水をD点まで押し上げる。そしてこのD点から東与賀中に配水するのであった。通常のあお取水はこれで間に合うのだが昨年はこれだけでは間に合わず合わせてC点のポンプからも水を汲み上げて取水した。余談ではあるがB点には佐賀市内を流れてきた水を八田江は天井川である)ある。またA点には水門が3つあり通常は1つの門だけが開かれている。 4)村の耕地 この地区では米は600kgぐらに裏作は麦であるが減反政策によりトマト、なすび、イチゴ等の園芸作物も多い
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