中世の村と人々−現地調査レポート− ・調査村名 佐賀郡東与賀町下古賀(村) ・調査日時 1995年7月9日(日)車で調査 ・班員 3名 井高真人 大寺真一 浦中真由良 ・調査事項 1.しこ名について 田、堀、しいで、橋、井樋等のしこ名とそのアクセント・由来 2.村の水利のあり方について @ 水田にかかる水はどこから引水されているのか A どこにある何という川、何という溜池を利用するのか B 何という井樋から取り入れるのか C その用水は単独の水利なのか、他村との共有なのか 共有の場合ア)受益村は何ヶ所で何という村か イ)配分に関する特別な水利慣行があったのか※あればその内容 ウ)過去に水争いがあったのか ※あればどの村と争うことがあったのか D去年の大干ばつについて ア)去年特別に行った水対策について イ)もし、この大干ばつが30年前の出来事ならどうなったか 3.村の範囲について @ 調査した村の範囲(どの道、どの水路、どの堀が境界か)→別紙地図に記入 A 村の共有の山林(入会山)があったのか。 4.村の耕地について @ 良田・悪田があったのか ※ あればそれぞれの反当と場所 A 戦前はどのような肥料を使っていたのか
5.その他 @ 村の姿のかわり方 A 今後の日本農業への展望 B その他の特記事項 注意 2について、調査した村は有明海の干拓地であるということで、淡水灌漑についての調査事項は削除 下古賀 (11:00 A.M.〜) 訪問先:徳久 悟さん(50代前半) 1.田のしこ名がそのままその場所にある堀、しいで、橋、井樋のしこ名にもなっている。 きたのうち(北内:分家集落からみて北に位置するから) あらこ(場所は不明) がんだ みないのまえ(南前:中心集落からみて南に位置するから) しもっかんひが(下古賀東:中心集落から見て東に位置するから) でんぷし さんぼんまつ(三本松) 2.@川 A江湖筋という川を利用、溜池はナシ。 B東与賀町全体で2つあったが名前は不明 C共有 ア)8ヶ村(この数は東与賀町の約半数にあたる。) 上古賀・下古賀・田中・作出(つくいで)・中割分割・新村・住吉 ※もう1つの村名は不明 イ)下古賀は水は豊富であったため、特別な水利慣行はナシ。 ウ)同上の理由によりナシ。 Dア) 当番制による水の管理(見張り) 今までにも多少の水不足は経験したことがあったが、去年ほど長期間に及ぶ水 不足の経験は始めてとのこと。上流の佐賀市との間で放水に関して少しトラブ ルがあった。 イ) 今は機械化もすすみ、水の管理も整備されているので水不足でも何日流して何日止めるという調節が可能だが、昔は自然流水に頼るしかなかったので、もし30年前に起こっていたならば壊滅的な被害を受けたことだろう。 3.A平地である為にナシ。 4.@ナシ。 A牛・馬・人糞・堆肥(今はほとんどが化学肥料、有機肥料も少しは使う。) 5.@とにかく離農が進んでいる。(昔は23軒農家があったのに対して今では兼業農家を含めても5軒しか農家がなくなった。)それに伴って耕地も減少し、県道が通っていて佐賀市内から比較的交通の便がよいことから、住宅や公共施設が次々に建てられた。農業に関する変化としては、昔は米と麦を作るのが一般的だったが、最近では輸入量の増加のため、麦は作って赤字になることが多いのでかわりにイチゴ、ブドウ、メロン等の果物やナス、トマト、アスパラなどの野菜を作る農家が増えた。(これらの畑作物の中で下古賀で最も栽培が盛んなのがイチゴで、ここで生産されたイチゴはすべて農協を通じて東京へ出荷されているそうである。) A今後の日本農業の行方は「あと10年が勝負!」とのことである。つまり、あと10年、現状維持が可能であればその後も日本の農業は持ちこたえることができるであろうが、今後10年のうちにさらに離農が進むと日本農業の最大の問題は後継者がいないということである。この理由は上に述べたように日本農業の未来が不安定であるという点にある。このことに関して日本政府は一体どう考えているのだろうか。政府の対応が曖昧でよく分からない、といった政府に対する不満感や不信感がとても強かった。又、今年は政府が米価を維持したことについても、検査が年々厳しくなっているので維持とは言えども実質は低下である。このままでは農業を続けてもお金にならないので他の職業もしないと生活できない。(実際、徳久さん自身も今年の5月から月〜金は日雇いの仕事を初め、土・日のみ農業をするといういわゆる兼業になられたそうである。ちなみに月収はちょうど半分づつぐらいで、毎日農業をしている時に比べると、肉体的にはかなり楽になられたそうである。)又、このように生産した米を政府に出してもお金にならないことから、特に昨年の米不足以来、個人商人との取引が増えた。今後、彼らとの取引は確実に増えていくだろうとのことである。 |