「農村・山村を歩いて考えるレポート」 東与賀町(大野)・西与賀町(元相応) <調査者> 小林直樹 石井裕子 笹塚圭 <西与賀町・元相応> 話者:荒島勝人(50歳くらい)、荒島婦人、村岡末広(50歳くらい) 村岡じいさん(80歳くらい)、古賀又八(80歳くらい) 開拓推進協会の人々、農村環境科の人々 今回は自主行動で佐賀郡東与賀町大野と佐賀市西与賀町元相応の調査に行った。元相応ではまず荒島婦人とそのお孫さんに接触した。婦人は、自分はしこ名についての知識はほとんどなく、名前と場所が正確に一致しないとのことだった。そこへ荒島勝人さんが作業を終えて自転車で帰ってきた。ここで荒島夫妻に話を聞いたが、ここで得られたしこ名は2つほどで、やはり正確な位置は分からないとのことだった。このあと荒島さんは元相応でしこ名に詳しい老人を紹介してくれた。(正確には、自転車で呼びに行ってくださった。ありがとうございます) ここで村岡さん親子と古賀さんが駆けつけてくれ、車庫の横に座り込んで話を聞くことになった。古賀さんは年齢が80歳くらいということもあり、他の人よりも多くのしこ名を知っていた。しかし、今ではすっかり使わなくなっているために正確な位置の分からないものが多かったので、地図にプロットするのには苦労した。 集まってくださった5人の方々がいろいろと相談しながら、「出来る限りの情報が残っている」とのことで、荒島さんに案内してもらって開拓推進協会を訪れた。しかし、残念ながらここには若い職員しかいらっしゃらず、お話を伺えず、また資料も残っていなかった。 次にここの職員さんに、市役所の農村環境科に行けばしこ名についての情報があるはずと紹介された。現調査のマニュアルに市役所に行っても情報が残っていないということが書いてあったが、せっかく紹介してもらったのだから、ここを訪問することにした。農村環境科でははじめに声をかけたのは20歳代と思われる和解職員さんで、しこ名についての話をしてくれた。しかし、ここにはやはりそういうものを記録した資料はないとのことだった。そもそもしこ名とは農家の人たちが勝手に使っている通称名(呼び名)なので、市役所に行って資料が残っているはずはないそうだ。 このような具合で、現地の農家の方々やその他の人々に話を聞いた結果が付属の表に記してある。中には、しこ名と小字が同一なものもあるが、それは現地の皆さんがそうだというので、恐らく合っているのだろう。また、「しこ名」という呼び方は、人によっては知らない人もあったが、「しこ名」とは、その辺りの農家の方が使っている田んぼの呼び名のことであって、小字とは違うということは十分に理解してもらった上で話を伺っている。不案内な土地で1日に2ヶ所の調査をしないといけないということで、佐賀市西与賀町元相応の調査はここまでで打ち切ることになった。
<東与賀町・大野> 話者:塚原タオさん(明治44年)と親戚の方々 しこ名:ダイジュガラミ(がらみの由来は海のあたりで土をからめたこと)ダイニボシン、 サキワイ、ナカワイ、ダイイチボシン、テマエワイ、アゲタ(マエタ)、 キタワラ、ノンボイ、ミュウレンツカ ・ 村の水は天山や背振など山の上流から流れてくる水は使っていた。下流の水は塩気を含んでいるのでダメ。 ・ 大昔の旱魃の時は本庄などの市内に水をくみに行っていた。洪水の時などは家を高めて2階に住んでいた。学校などで共同生活をすることもあり、配給があった。 ・ 昔の引水は主に川から、井戸は共有であった。 ・ 1994年の旱魃についてはあまり皆覚えていない。 ・ 昔よく米がとれるところとしては住吉があげられる。日本一を誇っていたらしい。あまり米がとれない田とは、海水のせいで塩気がまじり、そのせいで収穫に影響があるという。「〜ぼしん」と呼ばれるところである。 ・ ノウテはあったが特に名はつけていなかったらしい。 ・ 米以外の収水はダイズ、麦などに。 ・ 田に入れる肥料はテツツや肥料屋さんから入手していた。また川の泥とわらと混ぜ、くさらせて家畜のふんを混ぜたものなどを使っていた。 <一日の行動> 田に仕事に出てる人(中年の人)に声をかけ旨を伝えると、田のことは年寄りに聞くように言われた。そこで、村の中でも大きな家を訪ねたところ、快く引き受けてもらえた。家におじゃまして2時間くらいお話を聞く。5〜6人いらっしゃったので、あちこちから意見が飛び交っていた。 |