〔中世の村と人々 調査レポート/佐賀郡東与賀町飯盛〕

<調査者>

石井正徳

石村彰造

石本有介

牛島一昭

内田学

 

(訪問当日の電話の段階で)

 計画当初は、古賀保成さん、古川求さん、島ノ江善仁さんを訪問取材するつもりであった。しかし、確認の電話を前日にいれたところ、古賀さんは御都合が悪いとのことで断られてしまった。

 古川さんは、当日御都合が悪かったらしいが、代わりに大坪成人さんを紹介してくださった。この方のお話は非常に参考になった。

 島ノ江善仁さんは、31歳と若かったために父を紹介していただいた。また、その裏に住む隠居されたご老人も紹介していただいた(以下、この御老人のことを「御隠居」と記す)。この御老人の名前を聞くのを忘れたのが、非常に悔やまれる。

 

 

(現地調査)

 以下、質問内容(13)と各御方の回答をそれぞれ記す。

 

<質問1>

19701990年代にかけて行われた圃場整備事業以前の田のあだ名(いずれの方も「しこ名」ではなく「あだ名」と呼んでいらっしゃった)について。(役場や登記所で使っている字名はわかっているので、村の人々の間や、家の方々の間だけで通じる田の名前、呼び名の方の名前)

 

 地図上で場所がはっきりしているあだ名は、地図のほうを参照して頂きたい(地図は佐賀県立図書館に所蔵)また、島ノ江さんやご隠居に教わったあだ名は最初頂いた地図には載っていなかったので、別の地図を拡大して記載した。

 あだ名はわかったが、地図上で確認できなかったものもあった。御隠居のおっしゃるところでは、「高太郎新地」というのが小学校の周辺あたりにある(地図NO.2の中央上部、緑のカラーペンで示す)が、この土地名は別の場所でも使われているらしい(その地域を中央右下、青のカラーペンで囲む)。また、「高太郎新地」を中心に、その周辺を「高太郎新地の先」などといって表したとのこと。

 古い土地は古地、新しい土地は「さら地」ということが多かったとのことであった。

 

 

<質問2>ほり(クリーク)、橋、樋門(用水や「あお(筑後川の潮位増によって上がった淡水を取ること)」の採り入れ口。開拓地では潮止めの場合もある) などのしこ名について。

 

 樋門の名については、地図で確認できないが名前だけわかるものを2つ教えてくださった。

 「はじゃいび」(西岡の〔もつぞうお〕―意味は不明)

 「どんぽいび」(排水用の門。今はポンプ場があり、現在でも使われている)

 クリークの名に関しては、各氏に聞いても「あだ名はなかった」との返答が帰ってきた。クリークを名前で呼ぶことはなかったらしい。

 

 

<質問3>水利と水利慣行

(1)   村の水はどのようにして取り入れ、また出しているのか。その折にはどのような取り決めがあるのか。

 

 各氏の返答は皆同様であった。上流の方の田から水を流し、1つの田が終わったら次の田へ、というように、1つずつ田に水を流すそうだ。つまり、全部の田にいっぺんに水を流すということはしないとのこと。

 

(2)昨年(1994年)は大干ばつの年であったが、それをどのようにして乗り切ったのか。

 

 大坪氏の話によると、時間給水制や、筑後川から「あお」を引くことによってどうにか凌いだそうだ。また、島ノ江氏の話では、ダムの近くまでトラックで水をくみにいったらしい。その結果、各氏とも必死の水工作が功を奏し、どうにか例年並みの収穫であったとのことだ。

 ただ、漁業とのトラブルがしばしば発生したという。田に水をいれるために水をせき止めると、海苔に必要な栄養分を含んだ水が海に流れなくなり、漁師さんとの争いがおこったという。したがって、時間を決めて海にも川の水を流し、漁業との協力も必要であったと島ノ江氏は語った。

 また、御隠居の話では、干拓地のクリークは海に近いため塩分を含んでいるから、あお取水同様うわ水を取っていたが、旱魃のため殆どが塩分を含んだ水になってしまったという。稲は多少塩分を含んだ水でもなんとか大丈夫であったが、イチゴなどのビニールハウス栽培でその水は使えないため、水を汲みに行ったという。

 

 

(3)もし圃場整備以前に昨年のような旱魃がきたらどうなっていたか。

 

 各氏共通の意見としては、恐らく自然のなすがまま、つまり、昨年のような収穫は見込めなかっただろうとのこと。

 大坪氏の話によると、ここ数年はそのような大干ばつはなかったそうだ。ただ、昭和12年(1937年 日中戦争開戦の年)に、昨年並みの大干ばつがあり、そのときは稲が枯れるのを指をくわえて見守るしかなかったという。大坪氏自身も神社に雨乞いに行ったそうだ。あまりの旱魃のひどさに、血気盛んな若者達(我々くらいの年齢の人)は、他の地域の人の水をくみ上げる機械に水をぶっかけてショートさせるなどしたという。

 

 

 (調査を終えて)

 家を探すのに苦労することを見込んでかなり早く出発したが、予想以上に家探しに時間がかかり、予定より1015分程遅れてしまった。しかし、訪問した方々は皆さん新設丁寧に応対してくれ、予想以上の成果が得られた。感謝したい。かなり暑かったが、のどかな田園風景を楽しむことも出来、有意義な一日であった。



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