【佐賀市蓮池町大橋地区】

歩き、見、触れる歴史学レポート

下記12人で6箇所調査しました。

944664 岡畑 豪

944675 小宮 佳奈

944689 森みどり

944691 山本一史

944748 重松公平

944766 溝口 誠

944771 脇日出男

944874 矢ヶ部恵子

944881 行本恵子

944991 井上勇輔

944889 新屋直史

944910 野口文子

この地の中心者:岡畑、小宮、森、重松、溝口、野口

<調査過程>

 私たちは複数で人数分の調査を行っているので、この大橋の調査は「見島――中地」に引き続いて行ったものである。そのため、話を聞かせていただく老人は、「中地」で話を聞かせていただいた福成さんに、大橋の古老である江口さんを紹介していただき、非常に楽に調査は進んだのである。

 この江口さんは圃場整備のころ区長さんをやったそうで、かなり話を詳しく聞けた。この話の内容もテープに録音しているが、途中でテープがなくなり、話が途中までしか録音されていない。「大橋」の分は「中地」の録音の後に続けて録音されている。

 

<質問内容>

     田ん中のしこ名

     クリークの呼び方

     水利

     肥料

 

<成果>

・田ん中のしこ名、クリークの呼び方

呼び方などは地図に記したとおりである(地図は佐賀県立図書館所蔵)。ここでも「中地」同様、「しこ名」という単語は通じず説明が必要であった。

・水利について

取水は筑後川からアオを取水。大橋は周りの土地に比べて水は豊富で、不作の年でも67俵、満作の年は平均78俵もとれ安定していたそうだ。昭和40年は9俵、昭和41年の旱魃のときでも10俵もとれる所があったそうです。そして、整備後も道中水利は続いており、特に1994年は大変大きな役割を果たしたそうである。

・肥料について

 五島や対馬など魚(特に鰯)が豊富にとれる地域に近いこともあり、シメカス(鰯の乾したもの)を薄く砕いてまいたそうである。また、下肥えも使った所もある。このような豊かな肥料も手伝って、910俵も米がとれるようになったのである。おじいさんの話では田んぼの土は、昔の方が、化学肥料を使用している今より有機質が多くてよかったようだった。また、この大橋は沖積地のため、もともと肥えた土壌であることも幸いしている。

 

地図に記したもので説明を加えておくと、

・番所……参勤交代時代のもの。

・井樋……区長さんが管理していた。

・妙徳寺と徳恩寺が明治4年に合併。

・ショウジョウボイ(放生堀)の由来

 小さな生き物を殺めるのはいけないと妙徳寺のお坊さんが生き物を放したことから、こう呼ばれるようになった。

 

今後の農業について

 馬からトラクターへと便利にはなったが、若い人がいないので、これから先の農業はどうなるかと心配であると語ってくれました。

 

 *オオミズボイの南西に位置する「底井樋」があるであろう所の写真。(写真省略)

 *話を聞かせて下さった方の写真。(写真省略)

  江口敬信(たかのぶ)さん 大正11年生まれ

 

 *話を聞かせて下さった方の写真。(写真省略)

  福成清次さん 昭和元年生まれ 68才。



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