【杵島郡有明町坂田、古渡、百貫、大谷】

中世の村と人々 現地調査レポート

1AG94106 佐藤正道

1AG94128 高田 僚

 

今回、佐賀県有明町の坂田、古渡、百貫、大谷とその周辺の地域に敷いて圃場整備が行われる以前、あるいはそれ以上昔の水田に関する現地調査を711日に行った。我々はそれぞれの村に対して調査前にアポイントメントを取ることができなかったため、ぶっつけ本番の調査となった。

坂田

まず、有明町に入って最初に訪ねた地区は坂田地区である。ここではちょうど農作業を終えられた男性がおられたので、その方にいろいろ伺うことにした。その方は年配の男性で坂田神社を西に少し遠く望む所に水田を所有、耕作しておられる方である。詳細は地図を参照して頂きたい(地図省略:入力者)。まずしこ名について伺ってみた。ついでに関して3つその男性から教えていただくことができた。それぞれ「ひゃーぶん」、「くのあい」、「ほしんぼ」である。意味や由来についてはわからないということでであった。

他にはご存じないですかと聞いたところ、昔のことだから忘れてしまった。とのことであった。

水路に関して同じ内容の質問をしたところ、その水田から見て少し北を西から東へ流れる水路を「さきなし川」と呼ぶと言うことであった。水は「めのき」(梅の木溜池)と「つつみ」(坂田溜池)から引いているということだった。水路の底のゴミは肥料等に利用されるかどうかお尋ねしたところ、「そんなものは使わん」と言う答えをいただいた。

また、たんぼの質や収穫料について聞いてみた。水田にも収穫の多いところとそうでないところがあり、戦前の良い田で反当たり約4(10)、そうでない水田で2(5)程度であったそうだ。当時は現在とは異なり肥料として「豆カス」や「油カス」を利用したということである。

1994年は干魃であったことを話すと、男性はこのような内容のことおっしゃった。去年は干ばつであったため、平野部の耕作地帯では水不足を解消せんとして、地下水を大量に汲み上げた。そのおかげで、この山麓の村の坂田の土地は、どんどん地盤沈下を起こした。山の方を指差してあの茶色く見える木があるが、あれは杉だ。あれは去年の小雨のために枯れてしまったものだ。山の方を見れば植わっている木はほとんどが杉の人工林であった。その山の場合、山の3割から4割程度の杉が茶色く枯れてしまっており、その光景を見て我々は驚いてしまった。また枯れた木々が放置されているのは人手が足りないことも関係していると思われた。

同じ坂田で誰かまた別の方に話を伺うことにした。できるだけ年配の方がいいと思い、お婆さんに話を聞こうとしたものの、まったく相手にしてもらえず、その方の息子らしき40歳程度と思われる男性に話を聞いてみた。が、明治以後の地名、二本松や三本柳というのは知っているが、しこ名については我々のような年齢では知らないということであった。

 

百貫

次に訪問した地区は百貫である。その頃にはさっきまでは小雨だった雨も強まり、道を歩く人や農作業する人も見当たらなかった。そこで、直接お宅に伺うことにした。はじめに百貫公民館の付近で調査を開始したものの、農業に従事しておられる方のお宅を見つけることができなかった。そこで、我々はもう少し山に近い西の地域に行ってみることにした。そこで何軒かお宅を訪問してみるものの、そんなことは知らないという返答が多く調査ははかどらなかった。確かに百貫の公民館付近とは違い、ほとんどの家が農家であるということだったが、質問には答えてもらえなかった。

そんな時ビニールハウスの中で作業しておられた老人の男性に話を伺うことができた。しかし、その男性もしこ名などは忘れてしまったということだった。その男性も明治に付けた地名しかご存じではなく、しこ名は知らないと言われた。干拓地に関して、干拓地を広げるためにしこ名をつけていたことぐらいしかご存じなく、しこ名は知らないと言われた。しかしその男性はその村の古老の家を紹介してくださった。川崎さんと言う方で、町の助役まで務められた方だそうだ。我々はさっそくそのお宅を訪ねた。ところがそのお宅の人の話によれば、今はその方は入院中で、今此処には居ないとうことだった。やむを得ず我々は次の地区を出した。

 

古渡

百貫から塩田川沿いに少し川をさかのぼった地区、古渡が次の訪問地だ。ここではそのようなことをよく知っている古老を紹介してもらおうと思い、あるお宅を訪ねた。生産組合長の方のお宅を教えてもらい訪ねてみたところ、その方はあいにく留守しているとのことであった。やむを得ず、いろいろなお宅に伺ってみるが有力な情報を得ることができなかった。

 

大谷、牛間田

最後に大谷地区を訪ねた。ここでもいろいろなお宅に話をうかがいに行った。しかし、この地区の家は農家でない家も多かった。そのような農家でないある家の方は、昔はこの辺りは船乗りも多かったと言っておられた。その時、私は多分船乗りとは漁業関係だろうと思っていたが、これについては次に訪ねた地区で明らかになる。あるお宅で「あそこの家の人がそういうことは詳しいのでは」と教えて頂いたお宅を訪問するが、生憎、ここもまた留守であった。それではということで我々はその隣の地区を訪ねてみた。

隣の地区とは、訪問したお宅のご主人によれば牛間田という地区である。そのご主人にいろいろなお話を聞いてみることにした。

しこ名について尋ねたところ、その家の前の田が「いらかい」というしこ名だということを教えていただいた。「いらかい」の「かい」というのは「ケ里」という感じのものがなまって「かい」になったのではないか、とおっしゃられた。しかしその家もかつては農家だったが、今は違うということだった。そのため、それ以上のことはご存じないとのことだった。そこで我々はこの辺りのことについていろいろ話を聞くことにした。

その牛間田(うしまだ)の地区は、牛のハナグリをおまつりしているということだった。ハナグリとは牛の鼻につける輪っかのことだそうだ。そのことから牛間田という地名も付いたのではないかと、ご主人はお父さんから聞いたそうだ。ご主人のお父さんはその地区に伝わる民話を本に提供したこともあるそうだ。しかし、しこ名も今と同様、放っておけば消えてしまうから伝えていくべきだ、ともご主人はおっしゃっておられた。

そして先ほど大谷で船乗りが多かった、と聞いたというと、それは塩田川の上流の塩田から陶器を朝鮮半島方面へ輸出する船のことだろうと教えてくださった。 70から80年位前のことだそうである。有田あたりからも輸出していたのではとご主人。また裏山からは石を多く切り出したと言う。その他にも、この辺りにはかつて鍋島の関係の班が治めており干拓による新田開発を盛んに行われたというようなことも聞かせていただいた。

 

我々が農学部の学生だというと多くの農家の方々「が頑張ってもらわにゃな」と声をかけてくださった。我われの突然の調査にも快くご協力くださった有明町の方々に感謝したい。



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