【杵島郡有明町竜王】

中世の村と人々 現地調査レポート

1EC94141 藤島 稔

1EC94150 松田吉景

 

調査日……7/11()

竜王地区の調査を行いました。しかしながら、この地区の歴史に詳しい老人の方になかなかお会いすることが出来ず、完全な調査ができなかった点ご了承ください。

 

 当日、僕たちがお話をうかがうことができた方々は、予めお手紙を出した生産組合長の小森喜佐雄様、そして、大井多四郎様(昭和34年生まれ)、小森俊男様(昭和8年生まれ)3方です。大正生まれの方にはお話をうかがうことができませんでした。

 

 まずばめに、僕たちが今回調査することになった竜王地区について尋ねました。地図に示した赤のラインは堤防であり、これによって南北の境とされているそうです。また、東西においては、廻里川によって境とされていて、これらによってこの村は3つの地域に分けられているそうです。

 この地区の干拓は、現在の長崎本線沿いの「竜王前」「竜王搦」「竜王籠」の辺りからはじまり、そこから東西南北へ広がっていったそうです。大井多四郎様のお話によると、昭和初期の長崎本線が完成した頃には現在とほぼ同じように整備された状態となっていたということです。

 次にしこ名について尋ねました。ここで小森喜佐雄様と小森俊男様の2人はしこ名という言葉すら耳にしたことがないと言われました。そこで授業中にもらってマニュアルと地図などを見せながら再度お聞きすると、大井多四郎様が<地図(原本は佐賀県立図書館所蔵)>を指して、これらの搦の名前がそのまましこ名に使われているとおっしゃいました。小森俊男様も同じようにしこ名というみのは知らないけれども、昔からこれらの搦の名前で田ん中を呼んでいるとおっしゃいました。

 そして、圃場整備以前の古い地図を見せていただいたところ、これら搦の名前とその田ん中の主の名前がたくさん細かく記載されていました。ここで3人がそろって言われることは、この地区では皆昔から田ん中をこの搦の名前で呼んできているということでした。この地区では田ん中の搦と搦の境には石碑も多く見られるようです。

 そこで、搦の名前に関してもう少し詳しくお話を聞きました。最初に述べたように、干拓は「竜王前」あたりから始まり、広がっていきました。この地区の北の方には「安兵衛搦」「利兵衛搦」「久蔵搦」など干拓を行った人の名前をとって名付けられた田ん中が多く見られるそうです。また、竜王地区のほぼ中央に位置する「神水場」という名前は文字通り神様にまつる水をくむ場所であったということが由来であるそうで、「しんすいば」というのは、次第に「しえば」となまっていったそうです。その後干拓は南へとすすみ、最後に大搦と呼ばれる田ん中ができたそうです。

 現在では圃場整備が完全に行われていて、これらの境もあいまいな点が多いそうです。

 この他にも時間の許す限りいろいろと訪問しましたが、お年を召した方にお会いすることができず、戦前の詳しい様子やその他のことが調査できなくて残念でした。

 以上



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