【杵島郡有明町六ヶ里】 現地調査レポート 1LA94075 川ア有紀子 1EC94194 渡辺暁子 調査日:7月11日 話者:溝口多作さん(大正七年七月生) 木須虎雄さん(大正三年九月生) 木須功さん(昭和十四年八月生)
T.しこ名の成果について六ヶ里は有明海の自然陸地化により形成された地で、条里制の「六里」が地名として残ったと推定される地である。古くは六箇里と表記された。ここで聞いた話をまとめると、次のようになる(地図とあわせて見てください。地図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵)。
・田のしこ名は、みな、役場に登録されたのと同じものを普段でも使っているとのことである。六ヶ里の人々が普段使っていたしこ名が、そのまま役場の登録名となっているようである。
・六ヶ里の範囲は地図にある通りである。高町の商店街のかなり左側の所まで、というのが注意すべき所である。六ヶ里は「りゅうしでん(竜子田)」「なかた(中田)」「ほこでだ(鉾手田)」「ばばだ(馬場田)」の四つからなる。 ここで、調査によってわかったのが、「ばばだ」は、A「かがら」という別称をもっており、「ばばだ」よりも「かがら」の方がよく使われているということである。 また、Bの部分、「かがら」の南は、昔、「いなさ(稲佐)」と呼ばれていた。 「ほこでだ」の中の一部は@「むらうち」と呼ばれていた。
・久治との境界の所には、昔、寺があり、その近くに六地蔵があった。この寺付近をC「とうろじまえ(登路寺前)」と言い、寺に登る路の前の意で、そこを指したものと思われる。現在、この寺は久治のDの位置辺りに移されている。また、境界Oの辺りには、高段になっている、久治からの悪水を防ぐための畑がつくられていた。
・橋は、ちょうどEの角の所の橋を「ろっかりばし(六ヶ里橋)」、Fの所は「ちゃやんまえのゆび」と言われていた。Fの四つ角の所には、昔、茶屋があったことから、そう言われていた。「ちゃやんまえのいしばし」と言わなかったこともないが、「いしばし」は別の所にあり、混乱を避けるため「ゆび」と言ったようだ。
・堀の名は「さんげんぼい」と「ごけんぼい」があるが、この二つは微妙なものである。紫の線にある、Gを「さんげんぼい」、HIを「みなみのごけんぼい」、JKを「きたのごけんぼい」と言う人と、青の線のようにHIJを「さんげんぼい」、KLを「ごけんぼい」と言う人がある。
・紫の線の方によると、Nの部分は二十五年くらい前に新しくつくった「しんぼり(新堀)」である。これらの水源は川津の方から水が流れてきた、ということである。青の線の人の話では、Mの部分が「しいど」と呼ばれる排水路であった。また、水源は川津の方にあるP「ぬいのいけ」という所だった(場所はこの地図に載っていなかったため、正確な場所を聞くことができなかった)。現在の水源は田野上の梅の木谷溜池である。
・入会の山は「ろっかりやま(六ヶ里山)」と呼んでいた。別地図Qの付近である。ここには六ヶ里だけでなく、他の部落の山もあった(別地図は、現在のもの)
U.溝口多作さん(大正七年七月生)のお話・聞き取りの方法:先生に用意していただいた地図を見てもらい、溝口さんに質問をして、溝口さんが地図を指しながら答える形となった。
@溝口さんについて 溝口さんは小さい頃から六ヶ里にいらっしゃったが、戦時中は兵隊に行っていた。その後、帰ってきてからの約三十年間ずっと六ヶ里の変貌を見てきた方である。後で伺った木須さんのお話によれば、溝口さんのお宅は地主さんであったが、農地改革で多くの土地を手離したらしい。
A田のしこ名について 溝口さんは「りゅうしでん」「なかた」「ほこでだ」「かがら」の四つの地名をあげて、その場所も教えてくださった。場所は地図の通り。溝口さんの場合、「ばばだ」というのは出てこなかった。実際にこの名で呼んでいるというよりは、普段使っているしこ名が役場登録名となったそうだ。
B水について 堀のしこ名は「さんげんぼい」と「ごけんぼい」だが、溝口さんの話によると、紫の線にあるように、Gを「さんげんぼい」と呼ぶ。Nの部分は二十五年くらい前に新しく掘りたした新堀である。そして、HIを「みなみのごけんぼい」、JKを「きたのごけんぼい」と言う。この「みなみのごけんぼい」は、村の端の方までのびている。水路の水は、六ヶ里村のみの使用だったので、水の争いは専ら村内で起こっていた。この争いも「水不足」による争いで、争いの最中に雨が降れば、その争いを「水に流して」いた。水源は飯盛山の方から流れてきたらしい。伏流水の流れ込みがあったということなのだろうか。溜池の水が村・部落に流れてくる時間が決まっていて、その水を村の中でわける、ということもおっしゃっていた。溜池では取り締まりを行っていたが、雨が降って堀などにたまった水は自由に使用してよかった。 「ほこでだ」はあまり水利権がなく、干ばつの時には米が取れない地域だった。 また、「かがら」にも水路がなくて、あまり水がいかなかった。
C橋のしこ名について 橋のしこ名を尋ねたが、「橋にはしこ名はないよ」とおっしゃった。
D入会の山について 入会の山は「いなさやま(稲佐山)」とおっしゃった。杵島山あるいは飯盛山の辺りである。たきぎを燃料にしていた頃に、たきぎを取るために一週間程山に入っていた。草払いに行ったりもした。
E田の性質等について 田は、裏作はできたが、あまりやっていない。一反当たりの米の収穫量は、八俵、四八〇kgくらいであった。裏作をする場合は、大麦・小麦・はだか麦等を自分の家で使う程度の量つくっていた。 麦は千歯こきのようなもので脱穀し、石臼でひいて使っていた。他にはとうまめ(とんまめとも言う)も作っていた。 肥料は牛馬の堆肥を使っていた。堆肥の多い農家は「篤農家」と呼ばれていた。
F1994年の大旱魃について 昨年の旱魃の際は、堀の水がなく、井戸から取れる水のみでまかなっていた。が、それが足りるはずもなく、収穫はほとんどなかった。水を田に流す時間を一反当たり三分や五分(一丁だと三十分、五十分)と決めて、水を流していた。しかし、穂が出ず、溝口さんのお宅やその周辺の家ではほとんど米が取れなかった。 もらい水はほとんどなかった。自分の家から水を汲んでもっていき、手でかけたりもしたそうだ。政府からの救援策もなく、井戸だけが頼りだった。もし、勝手に水路の水を取れば、村内ですぐに噂になった。
Gその他 ▶現代の農業について、溝口さんに思うことはないか尋ねた。 「現代の農業は機械化されている。機会を買うにはお金がかかるが、(農作業に必要なので)機械をもたないわけにはいかない。農家は機械に過剰投資している。しかし、農業の収入はあてにならない。六ヶ里のほとんどは兼業農家で、そうでないとやっていけない(ただ、生産組合長の岩石さんの所はたくさんの田をやっているので、兼業をしていないようだ)。今の農業政策は、大農に重点をおいた政策だ。小農は見捨てられている」
▶減反について 割りあてでくるので、割りあての分の減反は村内でやっている。少し前までは、集団で減反を行っていたが、今は面倒なので話がまとまらない。 例えば、自分の土地のほとんどが減反にかかる人は、よその世話になって米をつくらなくてはならない。一度に一軒の家から多くの土地を借りるわけにはいかないので、あちこちに少しずつ借りる。しかし、これはそのあちこちのばらばらの田をみなくてはならないので、大変だ。
▶村の行事について 1.「かけまいり」 これは鐘や太鼓をたたいて、稲佐山に登るもので、どこの部落でも年に一回はやっていた。今は公民館にちょっと弁当をもって集まるぐらいである。昔はその部落の旗を立てて登り、また、家々をまわってお花をもらったりしていた。戦時中に、鐘を弾等をつくるために出してしまい、太鼓も破れてしまった。修理をしないまま、そういう行事をする人もいなくなって昔のようにはいかない。九月の行事。 2.「まめぎおん」 どこでも昔はやっていたもの。寺で地蔵をまつっているが、そのお祭り。各家をまわって、五銭、十銭をもらい、そのお金で花火を買ってあげていた。十銭をもらった時は、「そんなにもらって」と怒られながらもらったものだが、花火は楽しかった。今は子供が年に一回天神さんのお祭りをする。 3.祇園祭 春と秋に行われるお祭り。昔は大人も子供も皆一緒に御飯を食べにこのお祭りに行ったものだった。戦時中、食料がなくなりできなかったために。だんだんと廃れてくる。今でもあるにはある。 4.稲佐おくんち これは溝口さんが「稲佐おくんち」と言った直後、「天神さんが…」とそっちの話にうつってしまって、聞きそこねてしまった。 5.「天神さん」 十二月二十五日に行われる。餅をつく行事である。溝口さんが子供の頃に大人の人達がこのお祭りで餅すすりをしていた。今でもあるが、子供があまり餅を食べなくなった。昔は子供一人、三合くらいの米分の餅を食べていたが、今は一人一合くらいしか食べないのだそうだ。
▶溝口さんの思い出 ・お宮の川で、どじょうをとって売っていた。 ・高町の祇園が七月二十三日にあり、出店があって昔はにぎわっていた。 ・五歳の時に高町の酒屋(香月)が火元となる火事が起きた。 ・昔はお金がなくて、お金がかからないようにするために、よく「まぜごはん」をつくっていた(ちらしずしのことのようだ)。これをすると、女性が下準備で大変であり、今の若い人はせず、手間がかからないように店屋物をとったりするそうだ。
溝口さんは私達の質問に、一生懸命記憶をたどりながら、お話してくださいました。突然の訪問に、嫌な顔もせずにお話してくださって、ありがとうございました。
V.木須虎雄さん(大正三年九月生)、木須 功さん(昭和十四年八月十九日生)のお話・聞き取りの方法:溝口さんと同様、地図を見てもらい、質問に地図を指しながら答える形。後から現在の地図をだして、二つをあわせながら話が進んでいく。話は主に功さんがなさって、その足りない部分を虎雄さんがカバーするという形になった。
@木須さんについて 木須さんは、溝口さんが「木須さんならもうずっと古くからこの村にいるから」とおっしゃったので、訪ねた。木須さん自身もわからなかったり、思い出せなかった所があって、その時にわざわざ知っていそうな人に電話をして聞いてくださった。相手の方も、その後思い出したことがあったようで、木須さんに電話をかけて言ってくださった。木須さんのお話が、私達が一番聞きたかったことについてのお話だったが、時間があまりなくて、もっとたくさん聞きたいことがあったのに大変残念だった。勿論二人は親子である。虎雄さんは「ちびまるこちゃん」に出てくるおじいさんに似ていて、親しみのもてる人であった。「有明町史」をつくる際に、何らかのことに関わって仕事をなさった方とも聞いた。
A田のしこ名について しこ名は、やはり、「りゅうしでん」「なかた」「ほこでだ」「かがら」の四つの地名だった。「かがら」の別名が「ばばだ」であることが後からわかった(これは、橋の名前を別の人に電話をかけて聞いた時に、その相手の人が言ったようで、木須さんはそれを聞いて、「そうやった」と言っていらっしゃった)。もともとは、昔の地名をそのまましこ名として使い、使っていたのが役場登録された。ただ、四部落が一緒に圃場整備をして、地名が少し変わった所もある。例えば、「かがら」の南の方(地図B)は、昔「いなさ(稲佐)」(または「いなさ」)と呼んでいた(今でも「稲佐神社」などが残っている)。ここは圃場整備で「かがら」と一緒になり、水路もこちらと同じ水路を使用している。 六ヶ里の範囲は溝口さんと同じだった。 地図の@の辺りを特別に「むらうち」と呼んでいた。 それから、久治との境界の所に、昔お寺があって、六地蔵があった(地図C)。 寺は、今は移動しているが、もとの寺の場所は墓地があったので、掘ると仏様が出てきた。この寺の辺りを、「とうろじまえ(登路寺前)」と呼んで今でも使っている。現在、六地蔵の方は神社の中(お宮の神殿の東)に移動している。お宮は地図のD、久治の方になる。 事前の調べで、辺田・九治・六ヶ里地方には、中世、信仰の対象となった六地蔵が多く、六ヶ里公民館の近くにある六地蔵は、天文六年銘をもつことがわかっている。
寺 ―――――― 久治との境界 六地蔵
B水について 堀のしこ名は、やはり、「さんげんぼい」と「ごけんぼい」だが、木須さんの方は青い線にあるように、HIJを「さんげんぼい」、KLを「ごけんぼい」と言う。また、Mは「しいど」と呼ばれる排水路であった。 白石町の方からは悪水が流れてきていた。同じ町内でありながら、白石・久治とは水系が異なる。六ヶ里は「うめのきだに(梅の木谷)」から、そして、久治は白石の北山ダムから水を引いている。久治の方が高段にあるため、そちらから悪水が一滴も流れてこないように、わざと境界に畑をつくっていた(地図O)。幅は一.二mくらい。境界だったので、この畑でも争いが多かった。今はそこに道路があるので、わざわざ畑をつくる必要もない。 水源は「ぬいのいけ」はという池から涌き水が出て、「さんげんぼい」「ごけんぼい」の方に流れてきていた。「ぬいのいけ」は白石町川津の方にあったとされているが、今はもうない。冬は特に水がきれいだったので、高町の「香月」という酒屋が、この「ぬいのいけ」の水を酒造に使用していた(「香月」は溝口さんのお話にあった、火事で焼けた酒屋さんである)。 現在、水は田野上の梅の木谷溜池から引いている。ここからの水は、昔、水路を通ってきていたが、今は全部埋め込んである。六ヶ里の方が高い所にあるために、人が水を十取るのに、六しかとれなかった。その分、水を流してもらえる時間は長いようだ(ちなみに、梅の木谷溜池は四段からなるが、中二段と下段は享保〜明和年間に築造しており、江戸時代の新田開発の名残のようである)。▶「ぬいのいけ」は「縫池」と書き、川津・厳島神社のもの。 昔は井番があり、寝ずに番をしていた。手当てが出ていて、三千円くらいだった。「君達がバイトで稼ぐくらいかな」と言って、木須さんは笑っておられた。井番になるのは、当然、けんか・腕っぷしの強い者だった。
C橋のしこ名について 橋のしこ名は、地図E「ろっかりばし(六ヶ里橋)」、F「ちゃやんまえのゆび」があった。Fの「ちゃやんまえのゆび」は、最初二人ともなかなか名前が出てこなくて、功さんがわざわざ知っていそうな方に電話して聞いてくださった。虎雄さんによると、この橋の角の所に店があり、その店が茶屋だったので、そう呼んでいたのだそうだ。「ちゃやんまえのいしばし」と言う人もいるが、「いしばし」という橋が北の方にあり、混乱を避けるため「ゆび」を使っていたようだ。
D入会の山について 入会の山は、稲佐神社の裏手にある。「不動の滝」という所の周辺、池の堤の上辺りdそうだ(地図Q)。ここを「ろっかりやま(六ヶ里山)」と呼ぶ。この辺りには色々な部落の山がある。
E田の性質等について 水路のない南側の田「かがら」は、旱魃の時には米が取れなかった。 「むらうち」の辺りまではよかったが、そこから南側は水路がなく、田を通して水を入れていた。それであまり水が行かなかったようだ。「りゅうしでん」は肥沃で、一等の土地であった。今はどこも同じくらいの収穫であるが、昔は「りゅうしでん」が一番で、良い時は反当たり最高で八〜九俵取れた。 久治との境界の寺の辺り(須古久治、有明久治)には、白石にできたダムの底に沈んだ家の人々が移ってきた。そこは高段で、水害がなくて肥沃であり、昔栄えていたようだ。それで、その辺りの圃場整備をする時には周辺の人が拒否をしたようだ。 旱魃の去年も豊作だったようだし、水害があった時は六ヶ里の家ほぼ全てが浸水していたのに、久治の方はほとんど被害がなかった。 戦前の肥料は油を取った後のにしんを干したものや、「まめたま」と呼ばれる、大豆の粕をまるめたものを使っていた。
F1994年の大旱魃について 昨年の旱魃の時は、梅の木谷溜池の水でなんとかしのごうとしたが足りず、深井戸からの水に頼った。この深井戸の水を使うのは例年は行わないが、水不足のために去年特別に行った水対策だった。しかし、これでも足りなかった。 井戸を掘って水を汲むと、地盤沈下になる。百姓の場合は自業自得だが、百姓でない人間は困る、と木須さんはおっしゃった。
木須さんは、「もっと前に連絡してくれていれば、もっと色々準備できたのに」とおっしゃってくださいました。昔からいらっしゃっただけあって、詳しいお話をしていただきました。本当にお世話になりました。
W.七月十一日の調査六ヶ里に着いて、一番に生産組合長さんを訪ねると、お留守だった。組合長さんの母親が一人家にいて、「嬉野温泉に行ったのではないか。私は小屋で作業をしていて気がつかなかった」と言われた。母親の方に、田のしこ名を尋ねたが、御存知なかったようだった。 区長さんの所に行こうと相談して、区長さんのお宅はどちらでしょうかと尋ねると、連れていってくださるとのことで、ついていった。ところが、着いたのは区長さんのお宅ではなくて、溝口さんのお宅だった。どうやら、勘違いしていらっしゃったようだ。でも、運良く溝口さんからお話が聞けて良かった。 それから、木須さんを訪ねた。木須さんが「もっと前に連絡してくれていれば、色々準備できたのに」とおっしゃったので、「生産組合長さんに今日行きます、と手紙を出したのに、行ったらお留守でした」と言うと、「あぁ、生産組合長はダメだ。戦後の生まれだから…。それなら、老人クラブに手紙を出した方がよっぽどいい」という返事がかえってきた。 生産組合長さんが留守だったために、色々と予定が狂ったり、道がわからなくなったり、質問の真意をくみとってもらうのに手間取ったりして、なかなかうまくいかなかった。 また、調査は時間との戦いで、短い時間内でどれぐらいのことを聞きだせるか、そのことがよくわからなくて、帰りのバスの中でとても後悔した。 だが、今回の調査は、普段滅多に話さない年代の方々とお話することができて、皆さんにとても親切にしていただいて良かった。 六ヶ里に行ったことで、私達は六ヶ里が好きになった。これは一番の収穫なのかもしれない。
手紙を出す際には、大変御迷惑をおかけしました。 ありがとうございました。 |