【杵島郡有明町深浦西分】 中世の村と人々 現地調査レポート L2-12 宮崎良雄 山田周作 まず初めに、この話は深浦西分の生産組合長の溝口利昭さん方に、東西の生産組合長さんが集まり、それともう一人の古老もいらっしゃって話をしてくださった。そのため、東と西で調べたものが重なってしまったことを了承されたたいと思います。
○村の北部には3つの堤とダムが1つ(防災用、水があまり溜まらない)あり、それを使っているということである。南部では井戸を使用しているということである。 ○この村は全て干拓によってできた。以前はすべて海であった。よって全て湿田であったということである。また、干拓してできたため 海の方が水位が高く、大雨が降って海に流れ込まないため、水害がひどかったということである。
以上がだいたい聞くことができた話である。話を聞いていたときは結構多く話を聞いた気がしたのに、文章にしてみると以外と短いのはちょっと誤算であった。
お話をして頂いたのは 溝口利昭さん(60歳) 溝口吉久さん(62歳) 川崎鶴次さん(65歳) 以上の方々である。皆さんとても親切であったのでとてもよかったと思う。また、その他にも溝口吉久さんのお母様にとても親切にしていただいたのもよかった。
●しこ名について しこ名は地図のとおりである。(以下に「地図」から摘記、原本は佐賀県立図書館所蔵) ひぐちがらみ たつみがらみ おおがらみ そでがらみ げんば 十人がらみ かしまがらみ(ごもり) たわり(たわい) ひでがらみ もとかく 八ノ角 六ノ角 三ノ角 十ノ角 五ノ角 くらかく 道下(みちした) 深江(ふかえ)
*一ノ角から八ノ角まであったが、一ノ角、二ノ角はどこにあるのか分からないということであった。 *かしまがらみの中に、せきえん等のしこ名がついた田があったらしい。 *おおがらみは竜王の中にあったということである。 *うのとり、ほかさき、ひろがたというしこ名の田んぼもあったが場所は分からないということであった。 *たわりとは、田を分けるときに一度分けた後の余りをまた割ったものであり、条件が悪い田であったということである。
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