【杵島郡有明町辺田】 中世の村と人々 現地調査レポート 1LA94111 西條 1LA94158 津田
協力して下さった方々 藤井 照夫さん(昭和14年生 生産組合長) 石田 福松さん(大正8年生) 石田 熊雄さん(大正6年生) 定松 秀雄さん(大正14年生) 新郷 実光さん(明治41年生) 中村 清晴さん(大正14年生)
<しこ名一覧> ・三反割(さんたんわい) ・いなし ・たち ・いせこうだ ・仲間田 ・りゅうのあと ・城の裏 ・城の東 ・御供田(ごくうでん) ・ふくろのそこ・ ・角之内(かくのうち) ・つうだ ・えごきた ※えご→川のこと ・中田(なかた) ・かがら ・水深(みつか) (地図中記載より追記:入力者)
*村の水利のあり方 ・水田にかかる水は、以前は辺田の西南にある溜池から六ヶ里、辺田、下田野上、それぞれが水路を引いて得たらしい。現在は六角川から水を通し六ヶ里、辺田、下田野上にパイプラインを引いて用水としている。 ・水争いは、大規模(ex.辺田VS六ヶ里)に行われたことはない。ただ、辺田の人が六ヶ里に田をこしらえたり、六ヶ里の人が辺田に田をこしらえたり、というようなかけ作が行われており、水不足の際かけ作をしている田の付近で水争いが多少あった。 ・井樋はないけれどポンプ場がある。だから部落の評議員が当番となり、3人以上の要請がかかればポンプのスイッチを入れる。スイッチを入れ、切るまでの時間を1時間300円とし、例えばAさんが年間600時間ポンプを動かしたとすると、300×600−ポンプを動かすのにかかった電気代をAさんに支払う。(これは年間の決算時に支払い、また予算の中にも含まれている。) ・非灌漑時期、すでにパイプラインとなっているのでゴミは水あか程度しか出ない。肥料になるようなゴミはない。年に1〜2度部落単位で大掃除をする。 ・94年の大旱魃 ため池は田植えまでしかもたなかった。(パイプラインはまだなかったらしい) 灌漑用の井戸、ポンプ場から水を引く。その際1haあたり10分の水を流すように役員が決めた。しかし水の量が十分ではないため、自宅で食べる用の田しか残せなかった。生産組合長の藤井さん宅でも2反の食用田を残し、残り出荷用の4反を犠牲にした。 もしこの大旱魃が30年前のものであれば、水を入れる時間を知らせる鐘を鳴らすと共に、各家々が一斉に水車を踏み水を入れるという方法を取っていたため、発動機(水車)の数の多い裕福な家と少し貧しい家との間にかなりの差が生じ、水げんかが絶えず起こっただろうとのこと。故に、おそらく水げんかを解消するために時間決めで水車を踏むようにしただろう。
*村の範囲 ・地図上に囲ってある部分が辺田の範囲。下田野上と辺田の四本松との境は天満宮(隔離病棟)で区切られている。
*入り会い山について ・辺田の西に位置する山地は殆ど雑木林なので、誰でも利用できる。今年の水害で山林が被害に遭い、業者を頼んで木を持って行ってもらった。林業は儲からないので携わる人が少ない。
*村の耕地 ・二本松、三本松より西に位置する田が、山水の被害に遭い昔から湿田。(山水は水温が低いので稲がいしもち病になり易い)あとは乾田。故に米がよくとれる田ん中とあまりとれない田ん中の違いは、その家々の作り方や品質の違いであると藤井さんは語る。(食糧難の時、政府から推進されたよく実る稲は米俵40俵にもなった。) ・戦前使用していた肥料は、人糞・ぬか・もみがら・わらをつんで発酵させたもの。(菜種には人糞を使っていた。)
*その他 ●村の変わり方 ・貧富の差がなくなった。3反・5反百姓の人々もトラクターやコンバインを持っている。 ・手作業が減少した。 ・藤井さんが22歳〜23歳の頃、米1俵の値段は4000円だった。現在は1俵16000円。あまり価格は伸びていないのにもかかわらず、周囲の物価は上がる。 ・私設園芸でなくては食べていけない状況。 ・裏作の方が儲かる。(裏作:玉ねぎ、麦)しかし高齢化が進んでいて、玉ねぎに関しては殊に手作業の部分が多い。 ・農協も近代化金という名目で援助を行ってはいるが、枠があるので十分ではない。
――この後、私たちは藤井さんの厚くお礼を申し上げ、村の老人の方々が集まる公民館へお邪魔した。――
・五本松地区(米津)の田は、耕地整を行う際3反まとめて1つの田にしたことから“三反割”という名前が付けられた。五本松周辺は更に、耕地整以前は「五本松の〜番地」という風に呼ばれていたので、特別なしこ名はなかった。 ・公民館のすぐそばに稲佐神社がある。山を背景に清らかさと荘厳さをたたえた神社だ。その奥まったところにあるほこらには、戦国の武将龍造寺隆信の骨が戦いの神としてまつられている。戦時中は兵隊となる若者たちが絶えず参拝していたが、今は平和な時世故に訪れる人も少ない…。老人会で草むしりをなさっているそうだ。 ・ゲートボールやテニスで賑わいをみせる稲佐グラウンド。はじめは地域の人々でグラウンド作りを行っていたが、ある時、一間くらいの大きな石が出てきて、更に掘ってみると全身の揃った人骨が粘土ですっかり密封状態にされており、発掘した際の酸素に触れ炭化したとのこと。後に県の手に委ねられたが、人骨のことは未発表。県の調査記録の中にはおそらく残っているだろうと思われる。稲佐グラウンドの真下が八隻崎になる。 |