【三養基郡北茂安町座主野地区】 レポート 1AG95197■ 林 英明 1AG95209■ 日中恵太 調査日 7月9日 場所 平野のクリーク地帯。周りの土地よりも低い位置にあり、ちょうどすり鉢の底のようになっている。従って、他の田からの配水は自然と流れて込んでくるので都合がよい。 しこ名 六場 前田 十五 ヤコダ 裏田 本角(ホンガク) 新堀(シンボイ) 小路(クージ) 小路の裏 しこ名の由来について尋ねたところ、「しこ名の名は自分たちが生まれる前からすでにあったから詳しい事は分からない」と言われた。しかし、「小路」という名については、明治維新の時、追い出された武家さんの屋敷跡なのでそういう風に付いたらしい。 座主野、白壁には井戸がそれぞれ一つずつあり、去年の干ばつの時に白壁はもう一つ掘った。井戸のしこ名はなかったが、座主野、白壁が使用する溜池のしこ名は「お茶屋の堤」という。 水利のあり方 お茶屋の堤を使用するのは座主野と白壁。堤を開けたときは道瀬川(ズセガワ)の水は座主野と白壁が使用。堤を閉じたときは東尾が使用する。昔は道瀬川の水利を巡り、座主野と白壁、東尾で水争いをしたらしい。 堤を開ける時は区長同士で話し合い、何日かおきでどこに水をやるか決める。開ける時は一日中水を出しっぱなしにする。現在堤は魚を養殖して業者に売っている。 去年の干ばつについて 昔使用していた井戸を開けた。白壁地区はもう一つ井戸を掘ったらしい。 田の水は井戸水、筑後川、堤から水を引いた。南の方は筑後川から水を引いているが、この辺の地区が水を引くのは異例のことなので、去年の大変さが分かる。 座主野は土地が低いために一晩すると他の村から水が来て、じわっとしみてくる。そのため、干ばつには強いが水害には弱い。昭和28年の水害時には屋根の上まで水が来て、舟で逃げた。 10年前の土地区画について 座主野の南は昔違う部落が使っていたが今度の土地改良で座主野の土地となった。田ん中の真ん中がつぶされて県道が作られ車も入るようになった。土地区画以前、田はあちこちに分散していたが、それが一つにまとめられて四角な田になったので、仕事が随分と楽になった。道瀬川も広くなった。 戦前と戦後の違い 戦前はもちろん、戦後もしばらくは牛や馬で土地を耕していた。田のうちのいくつかは牛や馬のエサに菜の花などを作っていた。やはり作業もその分大変なので裏作もなかなかできなかった。現在は裏作で麦を作っている。 昭和28年の水害時、牛、馬を早めに上の方へ逃がしたと言っていた。 戦時中、家に役人が来て米を取りに来るので藁の中に隠していた。そして木元と交換したり高く売ったりもしていた。普通の農家は自分たちの喰い分で精一杯だったが、大農家はかなりもうかったらしい。 伝統行事 12月15日 村祭り 9月8日 八幡神社 放生会 シラカベ イチバル チリフク ナカサンソン ザスノ イシガイ 上記6の部落で担当を回す。 |