【三養基郡北茂安町千栗地区】 レポート 1AG95189■ 野田繭子 1AG95198■ 林 涼子 千栗は千栗八幡宮の門前町として栄えた。そのため昔からの商人町であり、田畑は家庭の菜園程度で、農家は存在しない。 千栗は筑後川の水に恵まれ、水利など争いはなく、水には困らなかった。なお、去年の大渇水の際も、筑後川と地下水のおかげで福岡市のような断水はなかった。 千栗地区は千栗八幡宮の一帯で、山中(さんちゅう)、八竜(はちりゅう)、千栗(ちりく)、上町(かんまち、中町(ナカマチ)、下町(シモマチ)と地元の人が呼ぶ6つに分かれている。 山中の井戸から古川までしいどがあったが、昭和23年日本住血病が千栗、石貝一帯に発生したため舗装し、現在は側溝程度のものになった。このしいどを「たなばたさん」といい、石貝地区との境であった。なお、千栗には田畑がないので堀や井樋は昔から無かった。 古川を地元の人は「ふるいかわ」と言い、宮前橋(地元の人はおみやまえとよんでいる)の辺りに船着き場があり、この辺りを「きかいづ」という。昔は舟がここまで物資を運んでいた。下町と中町に綿工場が4軒あり、これは昭和7〜8年の金融不況でつぶれてしまったが、ここで作られる綿も舟を利用して輸送されていた。きかいづの少し下流に渡し津があり、これを「八銭五厘」と呼んでいた。 田畑が昔からないため、地名のみの収集となったが、この辺りには教育委員会の方もよく行かれて、昔の地名など調べているそうだ。「たなばたさん」も昔はどんこが住むほどきれいだったそうだが、今ではとても魚の住めるところではなくなっているそうだ。このように昔の日本の美しい自然はどんどん失われていくが、その記録を今のうちに残しておくのが我々の使命であると実感した。 今回は千栗には農家が存在しないとのことで、田ん中のしこ名というようなものがなく、早く終わってしまったので、付近を散策してみた。ちなみに今回訪問した中島さん宅はお菓子屋さんでカステラなどを売っており、周りの家も商店などであった。 ひかり幼稚園の横を通り、昔の「たなばたさん」あとを横目で見つつ、「子供の頃はどんこが住んでいる程きれいだった」など話してくれたことを思い出しつつ、とりあえず千栗八幡宮へと向かった。千栗八幡宮は高台にあり。久留米市や筑後川が一望できるところであった。 お宮の人に話を聞いてみると、ここは宇佐八幡宮の分身で古くからずっとあったという。境内には樹齢およそ400年の木々が立ち並び、狛犬の浸食具合からも、この八幡宮の長い歴史が見て取れた。しかし、社務所などは一部新しくこれは昨年の台風により屋根が山中の方までとばされてしまったかららしい。 千栗八幡宮の伝統行事として「おかゆだめし」というのがあり、おかゆをかめの中に入れておき、おかゆに生えるカビの生え方などによって、その年の豊作だめしをするそうだ。境内の地面には昔のその跡があり、かめのかけらや埋まっているかめの一部が地面から顔をのぞかせていた。 ここには長い歴史があるため、熊本大学のある生徒の卒論のテーマにもなり、原稿用紙180枚程度にもなる卒論のコピーを見せてくれた。昔の当時の記録などは、大友宗麟と戦った際にほとんど消失してしまったらしく、詳細はこの卒論を書いた人が一番知っているのではないかと宮司さんが話して下さった。 一応、千栗全体について尋ねてみると、ここの区のメインは千栗八幡宮で、周りの林がほとんどを占めており、民家は他の所に比べると少ないらしい。水にもここは恵まれていて、渇水などはなかったにせよ、逆に筑後川が氾濫し、家の1階部分が水につかってしまうなど水害は大変だったそうだ、そのため、家のつくりは中二階づくり家がほとんどであった。 田畑のしこ名はなかったものの、時間を有意義に過ごし、歴史からいろいろなことを学び、これからの新たな課題が少し見えたような一日であった。 |