三養基郡北茂安町白壁地区】

歩き、み、ふれる歴史学レポート

1AG96-3 榎本鉄也

1AG96014 伊藤拓巳

 

1 白壁(1)

 バスを降り、地図を手にして歩いていると老人に声をかけられた。その人から昔、県の役員(詳しくは分からなかった)をされていて、近所で最も昔の地理に詳しい人を教えてもらい、さっそくその家へと向かった。その人は畑に出ていらっしゃったが、事情を話すと快く教えて下さった。

(話の内容)

 老人はしこ名のことを知らないと言い、そのかわり、この土地の小字とその由来を教えてくれた。

 小字:一本松(その範囲は古い地図でないと分からないらしい)

 由来:猿田彦大神をまもるために松を一本植えたこと。

  *田と民家の要所要所にある、この辺りの土地を守っている神のこと。

また、白壁、東尾、千栗などの大字は万葉の呼び名で、『風土記』を読むとそれらの土地のことがよく分かると教えてくれた。

次に水田地帯ができたときの話をしてくれた。白壁の辺り一帯は昔有明海の沿岸であった。鍋島様の時代に今の建設大臣にあたるような人物、成富兵庫茂安という人が沿岸を住みやすくするために、筑後川の堤防を築いて水を貯えてくれた。その際、三つの溜池(お茶屋の堤、石貝堤(2)を作り、その泥で堤防を築いたことを押してくれた。

最後にこの辺りでしこ名を知っている人がいるかと聞いたら、いないと言っていたので、皿山、白石へと向かうことにした。

名前を尋ねると、老人は大正13年生まれの某氏としておいてくれと言った。

 

2 皿山

白壁での調査を終え昼食をとった後、我々は皿山へ向かった。皿山には人が全く見あたらなかった。田んぼはきれいに手入れされていたが、どの家を訪ねても留守だった。また別の家を訪ねるとおばあちゃんがいて、その人は蜜柑畑をやっていて、田んぼのことは知らないと言った。田んぼのことについて詳しいという長瀬さんという人を紹介してくれた。

その後、我々は白石の長瀬さん宅へと向かった。しかし、また留守だった。皿山であったおばあちゃんが白石でも田んぼについて知っている家は2,3しかないと言ったとおり、田んぼについて知っている人はいなかった。その後、我々は神社で休んだ後、再び白壁へとへと向かった。

 

3 白壁(2)

 皿山、白石はあまりにも人がいないので調査が続けられず、白壁に帰ることにした。家を訪ねるのは効果的ではないことが分かり、田で働いている老人をみつけ声をかけることにした。しこ名のことを尋ねたが、小字を教えてくれた。さらに、小字「二本松」の中でも県道を境に「おくらだ」(由来不明)、「にしんでぐち」(部落の西側に位置するから)という二つの呼び名があることを教えてくれた。

 僕らはそれこそが僕らが集めているしこ名であることを説明すると、老人は「こんな呼び名、家族の中でしか通用せんし、10家族いれば10の呼び名がある。こんな名前を集めても意味がなか。」と言った。

また、小字は明治時代に地租をとるためにつけた名前だと言っていた。

 やっとしこ名を二つ集めることが出来た。この方法でもっと集めようとまた田で草をとっている老女に話しかけた。しこ名を理解してもラウの名手間取ったが、「にしんでぐち」「おくらだ」と出すと分かってもらえた。そして老女の働く土地は「しんみち(のきわ)(由来は新道に面していること)、または「田ほかのうら」(田ほかとは家のこと)の二通りで呼ばれていることを教えてくれた。

時計をみると4:30を回っていた。僕らは急いで集合場所へと引き返すことにした。



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