三養基郡北茂安町白壁村地区】

歴史と異文化理解Aレポート

S1-30 堀端康博

東 浩行

野嶽一将

 

バスを降り、一行は生産組合長の原口望さんの家に向かった。ところがどの家にも表札が無く我々は戸惑った。住民はみんな顔見知り同士なのかと、この時はじめて知った。農村ならではの出来事に僕たちは驚いた。10分程度でようやく先方の家に着いた。ところが留守であった。仕方なく我々は区長の武田藤木さんの所に向かった。武田さんも忙しく話を聞くことはできそうもなかったが、「少しの間なら……」ということでわざわざ時間を割いて頂いた。

武田さんの話は次のようなものであった。

一ノ幡、二ノ幡は白壁村の領域で、今は水田も見られるが、昔は畑であった。今は新県道が走っているが、昔は旧県道があり、ここを境に水田と畑が分かれていた。戦後は旧県道をアメリカ兵がジープで走ったという。しかし、大洪水が発生し新たに新道が作られた。

そして現在の水田の区画についてだが、地図を見せてもらったところ、この地図の区画は正しくないという。もう何十年もたつが、まだ完成しないらしい。

しこ名についてだが、区長さんはあまり覚えていらっしゃらない様子で、一本杉のしこ名が15(「十五田」と我々が地図に書くと、「そうじゃない15田だ。」とおっしゃったのが印象的だった。)という以外、一本松、一本栗のしこ名はそのまま、一本松、一本栗だと断定された。

堀については少し覚えていらっしゃったようで、甲神さん堀、八重さん堀など、いくつかのしこ名が見つかった。堀の管理は農民がするのではなく、それ専用の人がいるというようなことをおっしゃった。

武田さんのインタビューを終え、我々は昼食をとり、もう一度生産組合長の原口望さんの家へ向かったが、お話は伺えなかった。我々は道行く古老にしこ名を教えてもらうことにしたが、どの古老も存じていないようだった。仕方なく我々は八幡宮を見学することにした。

道中いくつかの新興住宅が見られた。「おや?」と我々は思った。というのは農村はだいたい過疎問題に悩まされているものだと潜在的に考えていたからだ。そう言えばセブンイレブンやハローというスーパー、WAVEという大きなパチンコ屋があった。どうやら白壁村は過疎ではないらしい。こういう環境なら僕も住みたいと神社の境内でふと思い、調査を終えた。

 

白壁村

 村域は南北に広く北は長崎道に達する。村の北部は最高75mの丘陵地、南部は低地で耕地が広く展開する。集落は丘陵地域南縁に位置し、そこを久留米道が東西に通じる。正保絵図に村名がある。村名の起源は、ここに清寧天皇の名代部(天皇の名「白髪」をとった「白壁部」)が置かれた名残だという。枝村の座主野村は親村から離れて南方平地に位置し、十五という条里遺跡がある。

 寛政二年(1790)の三根郡千栗郷図に北尾村及び当村南東部平地に千栗八幡宮の神領田が広く示されている。この神領を除いた地米(年貢)459石余(嘉永元年写の大小配分石高帳)の地が白石鍋島家の私領で、同家のおもな知行地であった。用水溜池として村の北部に神領地西浦池、北尾池があり、北東に池内堤があるが、ともに築造年代不詳。(『角川日本地名大辞典』より)



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