【三養基郡北茂安町白壁、北尾、西尾地区】 レポート 1AG97249Y 松本和之 今回の調査地区は自分の住んでいる所、長門石に近いということで楽だなあと考えてしまったが、それが大きな間違いであることが実際調べてみるとよく分かった。 なるほど現地まで自転車で15分ほどで到着したが、自転車で行ったことがなかったので自分のイメージとは異なることが多かった。まず思ったのは歩道の狭さであった。狭いと言うより、ないのかもしれない。自転車の真横を自動車が走っているという感じだった。北茂安の中学校がいつもヘルメットをして自転車に乗っている理由がよく分かった。 佐賀県に入ると、一面田んぼばかりだった。しかし、よく整備されていて、見ていて気持ちよいくらいだった。一方山の方に目を向けると住宅地のようになっていて、後から聞いてみると、地元の農家の人たちだけでなく、外からやってきて住んでいる人もいるようそうだ。 このような県道をはさんだこの対比は、現在の農村の現状、つまり基盤整備などによって近代化されつつある一方で、昔からの農村の風景も残っているという二面性を著しているように思えた。しかし、過去何百年、何千年と変わらなかった農村がこの数十年で一変してしまうことにはやはり危機感をもたざるをえないというのは、あまりにも速い変化で、農業に従事してきた人々が取り残されているかもしれず、さらには農村ごとの歴史や伝統が全て排除されるかもしれないと考えるからである。 これは今回の調査の一つの動機であるように思える。 まず、前回の調査資料を参考にして武田藤木さんの伺うことにした。しかし、不在ということで、いきなりつまずいたと思ったが、武田さんのお宅の二軒先に住んでいらっしゃる執行さんに白壁のことを伺うと、白壁といっても北尾と白壁という行政区分が戦前に役場の都合で一つになったとのことだった。そして、自分が住んでいるところは北尾に属するということだった。 これは勉強不足だと思ったが、更に話をうかがい、北尾というのはもともと妙覚院(ミョウカクイン)という千栗山にあった寺院の領地、つまり神領(ジンジョウ)で、農作だけでなく、そこの農民は妙覚院の寺男のように働きに出て、給料をもらっていたそうである。しかし、明治維新後の神仏分離令で廃仏の流れによって千栗神社と妙覚院は分離され、妙覚院の領地も元は佐賀藩によって与えられていたのでなくなり、北尾の人たちは生活に困ったのだそうである。 それとは対照的に山の向こうの白石神社は明治政府の手厚い保護を受けたそうです。だから彼らは仕方なく外地、つまり樺太や台湾へと移したのです。その結果、北尾は戦中には6軒しか家が無く、航空燃料のかわりの松根油の供出にも苦労したそうです。このような困難な時代を経て北尾は人口も増え、久留米に勤める人でベッドタウンのようなところもあるそうです。 実は執行さんは自分と高校が同じ明善高校で、しかも防衛大学を出て自衛隊にお勤めになっていたので、地元のことはご存じでないと思ったら、執行さんは佐賀大学の歴史講座のようなものに通われていて、お年の割にはいろいろなことを教えていただくことができました。 例えば県道の所まで昔は海があって、そこの田んぼを深く掘り返してみると、葦のようなものが出てきたということです。しかも、その県道沿いまで昭和28年の大水害の時は水が来たそうです。また、白壁の先にある土井(堤防)は成富兵庫茂安という人が作って、その効から白石神社に祀られているということを教えて頂きました。 しかし、やはり自分は田んぼのことには詳しくないということなので、池田末松さん(90歳)を紹介して頂きました。この方はここでも一番の長老で、しかも田んぼにも出られているほどお元気とのことなので、次はこの方のお宅に伺うことにしました。 道を下り、池田さんのお宅に伺ったところ、池田さんは耳が遠くて残念ながら話を伺うことができませんでした。しかし、土地のことはその土地を持っている人から聞くと一番良いとのことで、亀川憲男さんと原口敏男さんを紹介して頂きました。 まず亀川さんのお宅を伺うことにしました。ところでこちらも亀川さんはご不在で、奥さんとそのお友達のお二人がいらっしゃったので、話を伺うと、亀川さんが持っている田は、マエダ(前田)と呼んでいるとのことでした。 さらに区長をなさっている原口敏弘さんのお宅へ伺うと、大地主のようなので、東側、ギンゼ、ウッタシ(打出)、サカイミゾ、アシアライ、フカマチなどの名をご存じでした。また、アシアライというのは一番最後に作業をする田で、手足を洗うからこの名が付いたことや、サカイミゾとは東尾と白壁との境で、この間にはやきり水争いがあったこと、整備によってしこ名が昔のようにはっとり田と一致しなくなったことなど教えて頂きました。 原口さんにもっと田に詳しい方ということで、原口一男さんを紹介して頂きました。ここでは、ヒエダ、ムタダ、十五、キロメキなどのしこ名、さらには昔の白壁と北尾の境は、一本杉と一本松との間にあったこと、ウッタシ(打出)とはアシアライの逆で、一番最初に作業をはじめる田で、仕事始めの意があるとのことでした。また、北尾に属するジンジョウ(神領)はかなり広いということも分かりました。さらに部落ごとにしこ名は異なるが、ホンガクだけは白壁と座主野は同じように呼んでいるとのことでした。 次の日は西尾の調査を行ったところ、一本杉やス田、うら町や前田といったしこ名を教えてもらうか、これらのしこ名と前回調査の分とを比べてみると、なんの変わりもなかったので、尋ねてみると、全く調べてある通りに使っていて、十分通用したが、今ではしこ名で呼ぶことはないとのことでした。また、西尾の範囲を伺うと寺山のところが逆で、東尾との境は農協のあたりだろうでした。 このような調査であったが、やってみるとなかなか面白かったです。自分の住んでいる所とは地理的に近いだけだったらもっと身近になったような気がします。 白壁 田畑 ギオンダ ヒガシガワ(東側) アシアライ ギンゼ ウッタシ(打出) ロシャマチ(ワシャマチカ?) キロメキ フカマチ ホンガク ヒエダ ムタグ ジュウゴ(十五) マエタ(前田) イッポンマツ(一本松) 用水 サカイミゾ、ニシボリ、シンミゾ 利水について近くの部落とは多くの争いごとがあった。 北尾 田畑 ジンジョウ(神領) イッポングイ(一本栗) イッポンスギ(一本杉) 西尾 田畑 新茶屋 地蔵さん前 ウラマチ マエダ(前田) ギオン(祇園) タカラダ(高良田) キレドイ 土居端 イッポンスギ(一本杉) ヒガンデイ(彼岸デイ) シモダ(下田) 天神角 飯町 飯町 八反角 上田 寺山 執行輝さん(61歳) 元自衛官 池田末松さん(90歳) 農業 原口敏弘さん(63歳) 区長 原口一馬さん(72歳) 農業 |