三養基郡北茂安町西尾地区】

歴史と異文化理解Aレポート

1AG95166 友成篤敬

1AG95173 中村章宏

 

調査日 7月9日

今回授業の一環として佐賀県北茂安町西尾において圃場整備以前の水田のしこ名、または堀や地域の日常的な呼び名についての現地調査の結果を報告します。

なお、手紙でお願いしていた宮原清人さんは付近の昔のことについてはあまり詳しくないということで、次に紹介していただいた宮原次人さん宅で、竹下、竹田組と一緒になってため、そこから共同で調査することになりました。

また、当日(7月9日)は午後1時から公民館で集まりがあったために、4軒しか回れませんでしたが、御在宅していただいた方々の多大な協力により、出来る限りのしこ名通称を集めてみました。

 

・久留米道(くるめみち)写真アリ(写真省略:入力者)

明治以前に使用されていた軍用道路、切り通しのために気づかれない。

・若宮(わかみや)

・観音さん堀(かんのんさんほり)

  若宮にある堀。由来は不明。

・いわん小路(しゅうじ) 写真アリ(写真省略:入力者)

 西尾と東尾の境界となる道。古くは交通の要所としても重要。

・陣の内(じんのうち)

 昔はお宮があり、行政の中心だったという。

・北方(きたかた)

・杉園(すぎぞの)

・外分(ほかぶん)

・大園(おおぞの)

・猪山(いのやま) 写真アリ(写真省略:入力者)

 古くから使われている共同墓地。以前は猪がよく出ていたためこの名前がついた。

・松園高跡(まつぞのこうあと)  写真アリ(写真省略:入力者)

 猪山の北。昔、松園高等小学校があったためにこう呼ばれている。

・蓮輪(はすわ)

・中小路(なかしゅうじ)

 蓮輪と久保の間の道。いわん小路と同じく「小路(しょうじ)」がなまって「しゅうじ」になったと思われる。

・久保(くぼ)……久保田との関係は?

・卯衛門(うえもん)さん堀

 久保の南東にある堀。以前は近所の子どもたちがよく泳いでいた。

・西尾(にしお) 

 ここが元になって付近の町名になったらしい。

・館(たち)

 以前は八幡神社に城や石垣があったためにこう呼ばれている。

・館堀(たちぼり) 写真アリ(写真省略:入力者)

 館の東側に隣接する堀。

・館田端(たちたばた)

 館と田端の間に位置する。

・六地蔵(ろくじぞう)

 西尾の南にあったが現在はもうない。

・久保田(くぼた)

 久保との関係は?

・運動場(うんどうじょう)

 農耕馬を運動させていた台地。別名競馬場。

・中小路(なかしゅうじ)

 前述した中小路とはまた別。こんなに近い距離なのに何故か同じ名前の場所がある。

・寺ん前(てらんまえ)

 伝称寺のまん前にある。また伝称寺の中には鍋島公ゆかりの碑がある。

・蓮根堀(れんこんぼり)

 以前はここで蓮根を栽培していた。今は消火用水。

・蓮根端(れんこんばた)

 蓮根堀の付近をこう呼ぶ。

・三蔵塚(さんぞうづか)

*天神さん

 三蔵塚の北。以前菅原道真を祀っていた所があったため、それからその付近をこう呼ぶようになった。

・役場の下(やくばのした)

 田んぼの前に役場がある。

・三給(さんきゅう)

 水を三ヶ所に分けたのでこの名前がついた。

・小深(こぶか)

 田んぼが少し深かった。

・八反角(はったんかく)

 田んぼがちょうど八反あったのでこの名前がついた。

・新茶屋(しんちゃや)

・前田(まえだ)

 「めいだ」とはいわないのですがかと聞いたら「いわん」という返答でした。

・地蔵さんの前(じぞうさんのまえ)

  田んぼの前に六地蔵があった。今はない。場所としては少し離れているが、なぜかこの名前が付いたと地元の人は言っていた。

・彼岸でい(ひがんでい)

・下田(しもだ)

・浦町(うらまち)

 以前ボウリングをしたときに、ここから多くの貝殻が出てきたのでこの名前がついた。

・上の川原(うえのこうばる)

・上の車(うえのくるま) 写真アリ(写真省略:入力者)

 製粉所。

・下の川原(したのこうばる)

・下の車 写真アリ(写真省略:入力者)

 寒水川の水を利用して水車で製粉する。地元で「粉ひき屋さん」とも呼ばれている。

 

感想

 はじめこの現地調査にはあまり乗り気ではなかったが、地元の人々と話をしていくにつれて、だんだんと面白くなってきた。というのは話して下さる方々がはじめて会ったばかりの私たちに実に親身になって語ってくれるため、まるで一緒に思い出しているかのように、ついつい話の中につりこまってしまったからである。そして色々な名前の中でも「役場の下」や「地蔵さんの前」という極めて単純なものから、「運動場」「粉ひき屋さん」というような子どもが使いそうなユニークなものがあったりするが、その全部が全部地元の生活に深く根づいていることが納得でもあり驚きでもあった。

 しかし残念なことについ先日「しこ名」や「通称」の研究をなさっていた方がお亡くなりになっていたので、より深く調べ上げることができなかった。だが、地元の人の優しさに触れ、そこで昔の歴史をたどっていったことは大学でのいい経験になった。

 

調査に協力して下さった方

 宮原次人さん 大正8年 75

 寺田谷幸さん 大正777

 宮原利男さん 大正182

 宮原次昭さん 47

  宮原次昭さんは村のいろいろな所を案内して下さいました。



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