【三養基郡北茂安町中野地区】 歴史と異文化理解Aレポート 1AG95102 神武洋二郎 1AG95100 黒木 淳 聞き取り方法 当日、生産組合長の田中さんは不在で、隣の末永さんがかわりに頼まれていたので末永さん宅を訪問した。末永勇さんは思い出すのに大変苦労した様だった。末永さんからは5個ぐらいしかしこ名を聞き出せなかった。そのため、二手に分かれて一人ずつで手当たり次第、各農家を訪問していったが、他の人の田んぼのしこ名を覚えている人は少なかったので、昔、自分たちが耕していた田んぼのしこ名を聞いていった。中野区以外の田んぼを耕していた人が多かったので、他の区にまたがっているしこ名が多かった。 内容 1 しこ名 コレラぼち……牛が死んだときにこの場所に集めていた。 いびじり……「いび」は水門のこと。「じり」は下のこと。水門の下にあった。 ちょうふくじ……昔、ちょうふく寺という寺があった。 *「わたりがい」と「ちょうふくじ」の位置が二人の古老で違っていた。 同じ場所でも「かんのやしき」と「しほんえのき」という呼び方があった。 ・今の干拓川は昔もっと幅があり、「れんこんぼり(れんぼり)」と呼ばれていた。その「れんこんぼり」沿いの堤防は、昔、杉の木が植えられていたので、「すぎでい」と呼ばれていた。 ・筑後川沿いの堤防は「しんでい」(新しい堤防の意味)と呼ばれていた。 ・干拓川の南側は「どいほか」または「どいそと」、北側は「どいうち」と呼ばれていた。 ・橋や井樋のしこ名はなかった。 ・家のまわりの田んぼは、家の周りにあれば「まえだ」、東側にあれば「うちの東の田」とかいうふうに呼んでいた。 ・「ともふじ」の所の橋は「ともふじの橋」というふうに呼ぶこともあったらしい。 2 村の水利のあり方 ・水田にかかる水は、脊振山系を源とする水をためた。クリークや干拓川や筑後川から引水している。 ・その用水は隣の区と共有している。 ・昔は水利権は部落の区長さんたちが話し合って決めていた。(この話し合いは水が足りなくなった時だけ行われていた。 ・今までこの部落では水争いによる口論はあったが、傷害事件はほとんどなかったらしい。 ↓ ・現在水利権は町を管轄している土地改良区がすべて決めている。区長さんたちはそれをアシストする形で話し合いをしている。 ・去年の大渇水では、水のあるところから無いところまで水を運んでいた。 ・堀やゴミの所有権は特別に決まってなく、その近くの田んぼの人が共同で使うという形であった。 3 村の範囲 ・今の中野の本落は昔「たんなか」と呼ばれていた。昔の中野は中野城があった辺りのことをいっていたが、洪水による被害が多かったので、現在の本落のあるところに写ってきた。 ・山林はなかったので村同志共有の山林はなかった。 4 村の耕地 ・「どいそと」は昔、筑後川の河原みたいなところだったので、沼地が多かった。だから高地に畑があるぐらいだったらしい。 ・中野区は土地としてはよかったので、中野城の上の辺りが湿田だっただけで、他はほとんど乾田であった。 ・裏作は主に麦を作っている。 ・米の取れ高 昔……7〜8俵/反。平均400kgぐらい。 今……7〜8俵/反。平均500kgぐらい。 ・戦前は牛の糞を主に肥料として使っていた。人のものはほとんど使っていなかった。 5 中野区の姿の変わり方 昔……農作業はみんなで協力していた。 今……大型機械を使って主に個人でやっている。 ・農家の件数が減っているのと、大型機械の導入により、農家1戸当たりの耕作面積が大きくなりつつある。 ・米作が減ってきて園芸農家が増えつつある。收入が年中あるため。 6 今後の日本農業の展望 米の自由化に伴い価格が下がり、米作は厳しい状況になるだろうということだった。そのため農家は付加価値の高いものを作らなければ生き残れない。 ↓ これからの日本農業は日照とかに左右されにくい園芸農家が主になるだろう。 7 感想 昔は今の地区外にも田をもっていたそうで、この田の呼び方などは自分が作っていたこともあって、よく知っているようだったけれど、今の地区内の田んぼのしこ名を知っている人があまりいなくてとても困った。村の人に親切だったし、それなりに集めることができたのでよかった。 協力者 末永勇さん 昭和7年生 田中三四郎さん 80才 田中寿治さん 昭和15年生 江越清さん 大正12年生 そのほか村の方々(名前を伺えませんでした、すいません) |