【三養基郡北茂安町中津隈地区】 中津隈の旧水田に関するレポート 1AG95133 真正清司 1AG95132 白石由美子 調査実施日:平成7年7月9日 話をして下さった方:園田五朗さん (大正2年生まれの82歳) 1 田んぼ、水路のしこ名 五反田 ゴタダ 六反田 ロクタダ 七反田 シチタダ 干飯 ホシイ 後川 南崎 ナンザキ 西ノ古賀 ニシノコガ 堂ノ前 ドウノマエ 木土蔵 キドゾウ 川ノ西 カワノニシ 島崎 シマザキ 弁財天 ベンザーテン 九十分 西堀 八ノ坪 四ノ坪 英雄塚 舞郷 マイゴ コヒコ 深町 荒巻 アラマキ ヤーガケ 西堀 新堀 タネサン堀 舞郷井ゼキ 島崎井ゼキ 上別当井ゼキ オイハシ井ゼキ コイツテ井ゼキ 田んぼ一枚一枚にしこ名がついているわけではない。川の近くだから「後川」「川ノ西」と呼ばれたり、西堀がある一帯はそれがそのまま付近の田ん中のしこ名になったりする。 2 村の水利のあり方 用水の供給源は切通川。 切通川と一のノ瀬川の上流で、それぞれの村の村長が話し合いをして、かんばつの際の水利用の取り決めが行われた。 明治44年6月5日「一ノ瀬川配水日割石高」 水を流す日数と配水の日の取り決め ・ 村によって水を流す日数が異なる。だいだい1日から3日ぐらい。石高により差があると思われる。 ・ 日数分のくじを引いて、配水の日が割り当てられる。 (一覧表省略:入力者) *日割が一日おきであるのは、取り決めのない日をおかないと、上流ばかりで水をとってしまって、下流にうまく水がいかなくなるので、それを防ぐため。 *20年程前までは上流の部落にお金を払っていた。 *昔は「水取り」というのがあり、園田さんが小学校、中学校を卒業した頃には、1、2人で昼夜井セキで番をしていた。 新堤……水を引いたりためたりするために利用される。成富兵庫茂安(永禄3年〜寛永11年)という人が中心となって堤を築いたらしい。園田さんの話ではこの人はこの地域の「百姓(or農業)の神さん」だということ。堤を築く際、「人柱」も行われた。 佐賀道水……福岡県の柳川道水から久留米を経て、佐賀県のかしい川までつながった水路。150cmくらいの幅で地下を通っている。干ばつの際にこの佐賀道水を通して水のやりとりが行われている。 *昭和52年9月、田んぼの整備前、かんばつがあり、いくつかの井戸を共同で掘り、それで乗り切った。(地図に記入。(地図省略:入力者)) 昨年(平成6年)のかんばつでは整備後の田んぼに隠れた井戸を探し当てて使った。だからそれほど被害はなかった。 井戸を掘っていたら地下から流木らしい木片がでてきた。 ここからは園田さんの憶測 「その付近は大昔海の波打ち際だったのではないか。 そこで、飯飯→魚やエビを干していたから。 新巻→荒い波。 島崎→島のさきっぽ。というのがしこ名の由来ではないか。 3 肥料 堀にたまった泥のことを「ゴミ」と呼び、乾かして肥料として田んぼにまいていた。園田さんが子供のとき、中国から大量に大豆が入ってきて、それが肥料に使われた。鰯も肥料に使われた。 4 最後に 圃場整備の工事費や佐賀道水の負担金などの支出もいくらかあったが、整備してよかった、というのが園田さんの感想。 楽で便利になってきているらしい。百姓だけでは生きていけないと思う傾向があり、兼業農家が増えている。 |