三養基郡北茂安町中津隈、中津隈東、英雄塚、又座入地区】

レポート

 

大跡恵美

大西美咲

古老の名前

 碇(いかり)春之さん:昭和11年生まれ

 原 三利さん:大正13年生まれ

 

しこ名

 田

  一本松、二本松、三本松、四本松(江口)、五本松

  一本杉、二本杉、三本杉、四本杉

  一本黒木、二本黒木

  原東、原口、宝満谷

 溜池 

  浮牟田池

 

当日の行動

 私たちが行った英雄塚と又座入という所は一面田んぼが広がっており、その中にまばらに民家があるというような場所で、バスを降りた時は話を聞かせてくれる人に出会えるかどうか不安で、調査はかなり大変になるだろうと思いました。

 まず田んぼの中の道を歩いていると、田んぼに肥料を撒いている人がおり、道のわきにトラックをとめて立ち話をしている人が二人いたので、先に立ち話をしている二人の古老に話しかけてみた。そのうち一人は区長さんだということで、最初からついているなと思ったけれど、二人はこれから用事があるということでお話をお聞きすることが出来なくて残念だった。それを聞いていた碇春之さんがお話を詳しく聞かせて下さいました。

 そして話を聞き終わった頃にはもう昼食の時間になっていたため、民家の軒下で昼食をとり、それから6軒ぐらい民家を訪ねてみましたが、ほとんどの家には主婦しか残っていなかったため、しこ名に詳しい人がいなかったので不安になったけれど、最後に尋ねた原三利さんの所では奥さんも原さんもとても親切に対応して下さり、整備前のしこ名の書かれた地図を見せて下さり、いろいろと説明も聞かせてくれ、途中奥さんが私たちにジュースまで出して下さいました。そして最後にはもう使わないからと言って地図を下さいました。

 

@ 村の水利のあり方

 英雄塚と又座入のどちらも水田にかかる水は北茂安町と上峰村の境界となっている切通川から引水されており今は使われていないが、昔は中津隈西のあたりに浮牟田池という溜池があり、それを利用していたらしい。又、英雄塚と又座入には淡水は入って来ないらしいが、昔は筑後川から九丁分や田島まで淡水が上がってきたみたいで、今でも少しは上がってきているそうだ。

 

1994(平成6)の水対策について

 一昨年の干ばつのときには、切通川からの引水の他に工場の井戸水を使わせてもらったり、一週間に一回クリークにたまった水を順番に使ったらしい。また、新しく井戸を掘り出して使ったりもしたらしい。

 

もし一昨年の干ばつが30年前の出来事だったら

 水対策として小さな流れをたどって順番制で使ったり、寝ずの番や流し水をしたりして何とか稲だけはとれるだろうとのことだった。

 

村の入会山について

 中津隈の入会山は原古賀地区との境界辺りにあったらしく、国に渡すぐらいなら皆で分けようということで、米の1俵分で60坪の分け前で、中津隈西が180坪、中津隈東が250坪、板部が8090坪というように分けたそうだ。

 

村の耕地

 昔は中津隈西や板部の北部に牛馬が入れない湿田があることはあったらしい。

 中津隈では県道より南は粘土質のために肥料のもちがよく米がよくとれるが、県道より北は砂地のために肥料のもちが悪く、米はあまりとれないそうだ。しかし、砂地で穫れる米は、粘土質の地でとれる米よりおいしく、寿司屋などは砂地でとれる米を使っているらしい。

 

戦前の耕地について

 戦前の良い田では一反当たり34俵の米がとれ、悪い田では一反当たり2俵以下の米しかとれなかったそうだ。

 

戦前の肥料

 戦前は化学肥料がなかったために灯油や石油を稲の株につけて虫除けをしたり、堆肥やクリークの泥を上げて肥料に使ったらしい。

 

村の姿の変わり方

 戦前は村の農地のほとんどが小作人で地主から田んぼを借りて米を納めるという生活をしていたが、戦争が終わり農地解放によって小作人が自分の田んぼをもてるようになり、しだいに田んぼの中に家が建っていったらしい。

 

D 今後の日本農業への展望

 これからの日本農業は米の値段が上がらないために後継者がいなくなってしまうだろうということだ。また、今米1俵当たり約16,000円から18,000円であり、収入から肥料代などを差し引いたら手元に残る金額はわずかなものになってしまうため、ほとんどの農家は兼業農家になっているそうだ。そして田んぼの財産を放棄する人も増えてきており、田んぼに家を建てる人も多くなっていて、田んぼが減っていくのは確かで、30年後の食糧不足は必ずやってくるだろうとおっしゃった。

 近頃中津隈にも住宅街ができ、農業に携わっていない人たちも増えてきて、都会的な生活になりつつあるらしい。しかし、村の寄合のときには農民が上座に座るという風習は残っているらしく、また、農民の間には互助の精神が未だに強く残っているということだった。

 



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