【三養基郡北茂安町東大島地区】 レポート 坂本 里絵 下舞由貴子 しこ名について 豆津は昔からある古い稲作地域ではないそうだ。なぜなら昔は今よりももっと西寄りに堤防があり(地図記入<茶色>、地図は佐賀県立図書館所蔵)、そのため豆津は氾濫原としてあったそうである。だから今のような稲作をするようになったのは堤防が今の位置に移った後のことだそうである。そのためか、しこ名はあまり使っていないとおっしゃっておられました。 豆津を左図のように表すと大まかに左図に記入したように呼ばれているそうです。 ・ 嘉村(かんむら) ・ 小路(くうじ) ・ 前田(まえだ) ・ 下(しも) *前田、下は役所に使われていない名前。この広い範囲に対するしこ名。 家々では「前田ん田ん中」とか「下の一反三畝」とか家庭内で言っていたそうです。 堀のしこ名についてですが、豆津はあまりないそうです。一箇所しか集まりませんでした。シモという名は「海に近い」という意味だそうです。 村の水利について 豆津は近くを筑後川が流れているので、井樋をつくる必要がないし、水をためておく場所もないため、井樋はなかったそうです。明治末期頃は石炭をたいて蒸気の力で水を汲み上げていました。大正時代になってからはモーターを使い、ポンプで水を揚げています。今は3台のポンプで筑後川の水を揚げています。また干ばつの時は東大島、西大島、中野、市原で水を分け合っているそうです。 また、水路の高さについてですが、水路は田よりも低い位置に水面がくるようにしているそうです。なぜなら水面が田より高いと、水田を作るときにはよいが、冬、麦などをつくる時乾田にしにくいというデメリットがあるからだそうです。 豆津の高台に位置する嘉村の方では井戸を使っているそうです。去年の干ばつでは嘉村以外の比較的低い土地のも井戸を使って田に水を引いたそうです。しかし、豆津は筑後川のすぐそばということもあり、水にはあまり困ることはなかったので、一部の田を犠牲にして、涸らすようなことはなかったそうです。 村の入会地について くうじ(小路)の付近に長細く入会地があったそうです。地図参照。 村の耕地 ・まず土壌について 嘉村……土壌はよくない。 下……砂地。作業ははかどりやすい。麦にはよいが米にはよくない。 下でもまだ南に下がると粘土質になり、乾きは悪いが稲作には向いた土壌になる。 一般に豆津は砂状地で砂が多すぎて乾きがはやい土であるそうです。 ・湿田と乾田について だいたいの所では乾田だそうです。前にも述べましたが、そのために水路にも工夫をしていました。 水面が田よりも高いとき ・ 稲をつくるときは水の調節は簡単。水が入って欲しくなかったら仕切りをすればよい。 ・ しかし、乾田にしたいのに水が入ってしまいやすく作物がうまく育たない。 水面が田より低いとき ・ 田に水を入れたい場合は水を仕切って水面を上げて水を入れる。 ・ 乾田をつくることが容易。 戦前の田の収穫量 良田……8俵 悪田……7〜7.5俵 そんなに差はないそうです。また、その年の天候によるそうです。1俵も差がある場合はその作った人が怠けたと考えるほうが良いとおっしゃっていました。 戦前の肥料 ・ 菜種をつくって(裏作として)油をとった油かす ・ 大豆カスなど植物性のカス ・ ニシンカス 米はおいしいが経費がかかる。特に油かすはよく使われた。現在では土壌にあったものを選ぶ。その土地土地に応じて化学肥料が配合されたものを売っているそうです。 以上のことは 森 正義さん 大正6年 (78才) 桧枝 忠さん 大正3年 (81才) 古川弘正さん 大正9年 (75才) と、道を歩いていた方、農作業をしていた方にお尋ねしました。約10名の方に協力していただきました。 |