三養基郡北茂安町市原、白壁地区】

歴史と異文化理解A

佐賀県の農村についての現地調査レポート

平田竜一

林田 啓

 

今回、佐賀県の圃場整備の農村について聞き取り調査をするにあたって、区長、生産組合長、その他二人の古老、もしくは村に詳しい方を訪問し、しこ名や水利、村の歴史など、いろんなことを知ることができました。

@ しこ名

 まず、小字である一本松、一本杉、一本谷などの名前について。誰しもこの名前を見ると、その場所には松があったり杉があったりしてそう名付けられたのだろうと想像するのではなかろうか。ところが実はそうではなく、この名前は庄屋が田んぼを区分けしたとき、田んぼの「質」を示したものなのである。

 具体的に言うと「松竹梅」のように「松、杉、谷」の順で田んぼの質が落ちてくるのを表す。「松」が最も良田であり、稲、麦ともにできが良い。「杉」が次に良くて、最も悪いものは「谷」で、ここは湿田であり、麦は作ることはできない。それらの田んぼが集落を中心に一本、二本……、と名付けられていったのである。

 さて、今回の調査の最大の目的であるしこ名の方であるが、どの方も通俗的なものであるとおっしゃられて、その名について深く考えたことはなく、特に誇りに思っていらっしゃる風でもなかった。ある若い方は「うその歴史を教えちゃいかん。」と最初おっしゃられていた。しかし、その方も、自分の持っている田のしこ名は使っておられた。

 しこ名の付けられた田んぼも、昔は細かい土手や溝なので正確に区切られていたようだが、長い年月をかけて、少しずつそれらの位置が変わってしまったので、どこからどこまでが「ロクバ」で、どこからが「シモダ」であるのかはっきりとした境界を引くことはできなくなった。ただ「あの辺り」とか「この辺り」とか、大まかな場所をしこ名で呼んでいるようである。また、千栗や豆津などは士族(原文ママ)から始まった部落なので、そんなにしこ名の数は多い方ではないということであった。

どの方も自分の持っている田んぼのしこ名はよく知っているが、遠い人の田んぼのしこ名は詳しくはご存じではなかった。

今回は半日しか時間がなく、全ての田んぼの持ち主を訪ねることができず、地図を完璧には作ることができなかったかもしれない。しかし、最後に訪ねた家で、地図を見せたところ、「これだけ調べれば上等じゃ」と言われたので、八分目くらいには満足できるのではなかろうか。今回最も残念だったのは、最も村の歴史を知っていらっしゃるらしい牟田さんが温泉旅行でいらっしゃらなかったことだ。この方がいらっしゃれば、より完璧な地図ができたかもしれないのだが……。しこ名にも昔漢字を当てていたらしいのだが、今ではもう分からなくなったそうだ。

地図の補足説明。

ドイホカ:土居外からきたらしい。土手の外側という意味。訛ってデホカともいう。

テイデイ:低堤から来た?テーデー。

ジンジョウ:昔は市原のものだったが、今は白壁のもの。

シモダ:下田。村の下の方にあるから。

マツヤマ:松があって高いから。畑になっている古墳?

ザスノダ:区長さんの所では座主野との境にある市原の田を指すようであったが、生産組合長さんは座主野の田んぼのことと言われた。

用語

 ヒムネ:北から南に横たわる田んぼで、常に日があたる。

 アマムネ:東から西に横たわる田んぼで、常に雲や雨がある。

 

A 水利について

 地図には載っていないが、この地図の更に上の方に池ノ内というのが上と下の2箇所があり、ここの水を石貝と共同管理、共同使用している。例えば、今年の場合4月に生産組合長、区長、評議員などの人が双方の部落から集まり話し合って、石貝が2昼夜水を落とすと、次は市原が2昼夜水を落とすというような順番を決めたそうだ。管理のための草取りも同じ日に同じ人数を両方出してやる。生産組合長さんは、二つの部落は兄弟のようで

ケンカなどないとおっしゃった。

 蓮根堀もまた重要な水であるが、ここの所有権については区長さんと生産組合長さんでは意見が違っていた。区長さんのおっしゃるには、蓮根堀の所有権は市原にあるが、実際は市原と石貝が共同使用しているとのことだ。だが、生産組合長さんは市原と石貝の共同所有で使用は市原のみがしているとおっしゃった。どちらが正しいかの正確な裏付けはとれなかった。

 蓮根堀の水は古川から引いてくる。ポンプで水を吸い上げて、杉谷(ノノウチ)の田んぼを縦断させ、堤を突き通るトンネルを渡って、堀に運ばれてくる仕組だ。一昼夜三日間で堀は満タンになる。

 市原の田んぼの主な水源は池ノ内の堤と蓮根堀の2箇所である。

 昨年の猛暑による渇水は市原の場合、そこまで深刻な影響は受けなかったらしい。足りない分は、豆津土地改良委員?から水をもらい、時間で金を払ったり、筑後川の水を引いた歴史資料したそうだ。(豆津からもらった水が筑後川から引いたものだったような感じだったが、話の流れ上、確認できなかった。)

 

B 村の歴史

 今回幸いにも生産組合長さんに村の歴史について話を聞けたので、それを簡単に記す。

 戦国時代に鍋島氏と有馬氏が争っていた時のことである。鍋倉側の千栗八幡宮の出先として、豆津や東大塚(ウウツカ)に士族が出向いて、やがてそこに部落ができた。それらの土地の武士の食糧を作っていた士族が市原の先祖である。そうやって葦の生えた野原がやがて田んぼに変わっていった。

 1615(元和元年)に、農民たちを悩ませていた筑後川の度重なる洪水を防ぐため、「土木神様」と呼ばれる成富兵庫茂安が3(12km)にもわたる堤防を作り始めた。この作業は12年にもわたり、この間何度も洪水によって堤防が破壊されたり人が犠牲になったりした。この時人柱に選ばれた、着物を横縞にふせた床屋の息子の話は芝居にもなっているそうだ。しかし、この堤防が以下に農民たちに助けとなったのかは成富に「土木神様」という称号が与えられたことと、彼の名前が村の名前になったことを見れば分かるだろう。この時、堤防を盛り上げるため掘ったところが、蓮根堀となった。また、土は下のように移動させたそうだ。

 

C 襍談などから伺った日本の農業について

 圃場整備について。機械化されている農業では今までの田んぼではコストがかかりすぎるそうだが、圃場整備により、今までの半分くらいで済むようになるらしい。

 機械化はいいが、農業だけではそれすら買えないので別に働かなければならない。だから兼業農家が増える。小農家ではやっていけないので、大農家へ1年で125,000円から30,000円ぐらいで、大農家に田んぼを作ってもらうようになってきているらしい。大農家は23人が集まって農業管理センターというのを作って農業経営をしている。農業での生活は苦しいので、勉強し、計画しなければならない。生産組合長さんは農業を続けていけるかどうか心配で子供に継がせることは考えていないそうである。

 田んぼもどんどん開発され、ビル、工場、商業住宅地に変わってきている。どこかで「線引き」をして食糧基盤の土地を残さなければならない。国からの援助がなくなると、田んぼは無視、放棄され、あちこちであれていく。また、20%は減反しないと奨励金が出ないそうだ。その分を韓国やベトナムなど米の不足している国に援助すればいいのに、と組合長さんはおっしゃられていた。余剰米が多いと米が安くなるので、生産調整のため、減反を強いられるそうだ。これからウルグアイラウンドで米が外国から入ってくるので、さらに減反しなければならなくなるらしい。日本の車の黒字のしわ寄せが農家にきている。

 農業経営は決して明るい見通しではないが、日本の台所を支えるため、一生懸命米を作っているという印象を受けた。

 

D 後記

 突然押しかけていったにもかかわらず、いやな顔一つせずに自分たちのぶしつけな質問に快く答えていただくことができた。村の皆様には本当に感謝します。



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