【三養基郡北茂安町石貝地区】 レポート 1AG95207■ 日野まど香 1AG95217■ 藤 智子 1AG95219■ 藤本 恭子 石貝地区 1 しこ名 一本栗……ジンジョウ(神領) シンリョウが訛った。 二本松……ニシンデグチ(西出口) 三本松……カクミゾ(角溝) ハタングリ(八反栗) 平林 ……ドイホカ(土井外) イオトリダ(魚取田) 大雨が降った後、魚が手づかみでも捕れるくらい簡単に魚がとれるため。 これらのしこ名は石貝の人しか通用しない。地番を知っている人は持ち主ぐらいで、しこ名を使わないとどこの田んぼのことを言っているのか分からないらしい。これらのしこ名は今でも使われている。 2 村の水は、どこからどのように取り入れているのか。また、どういった取り決めがあるか。 石貝堤から取り入れている。市原と石貝で奇数の日と偶数の日に分けて田んぼに水を引く。何事も市原と石貝の話し合いによって決める。水争いは一度もない。 3 1994年は大干魃の年だったが、どのようにしてそれを乗り切ったか。 石貝堤によって石貝は大干魃の影響を受けずに昨年も豊作であった。今でも不作に見舞われたことはないそうだ。だから30年前に昨年のよう大干魃が起こってもたいして困らないということだ。 4 良田、悪田について 旧県道を境にして上の方は山の麓を開墾した農地だから収穫が少ない。なぜならば、開墾して作ったのは底土が浅いから米があまりとれなくなるのである。 旧県道より下の方は1350年前までは海だったらしい。それは井戸を掘ってみると、上から1m30cmは普通の泥だが、約2mの所は砂で、約3mの所は海のゴミでできた真っ黒の泥土であるので、海であったことが証明される。泥土には葦の根があった形が確認されている。 筑後川の下は阿蘇から濁った水によって下の方に泥がたまるので、よけいに米がとれる。この良田と悪田の差は、1つの田に付き1俵から1俵半ぐらいである。 5 偉大なる成富兵庫茂安 初代鍋島直茂、2代勝茂に仕えた人物でおじいさん曰く、この人がいなかったら石貝の村自体存在しなかっただろうというほどの人物である。 360年前、尺八を参考にして石貝堤を作った。10mの松の木を6本の真ん中をくりぬいて、30個ぐらい穴をあけて石貝堤を作った。松の木では作れないので。あまりの功績にあの加藤清正も成富兵庫茂安をほしがったらしいが、成富兵庫茂安は生涯二君に仕えずといって断ったらしい。 今では土木の神様として白石神社に祀ってあるそうだ。またこの人の名をとって地名をつけた。明治維新の時鍋島ナオタカ(直堯?)は東京の方へ行き、市原と石貝に石貝堤と蓮根堀をただであげた。 6 今後の農業 まず1番目にあげられる問題は嫁不足による農家の減少であろう。やはり農家ではお嫁さんが来ないので自分の息子に農家を継がせるのではなく、他の職業に就かせるという人が多いらしい。石貝では誰もまだ後継者がいないそうだ。そのため、専業農家ではなくみな兼業農家である。 お話をして下さった方 古賀元司さんの親戚のおじいさん 大正1年生 84歳 感想 実際に農家の人とお話しして大学の講義とはまたひと味違う勉強ができて良かった。 |