【三養基郡北茂安町干飯地区】 歴史と異文化理解Aレポート S1-28 城戸 宏公 佐々木千恵 7月9日 お聞きした方 藤光一弘さん 61才 太田國彦さん 75才 太田新作さん 72才 私たちはこの3名の方に干飯地区のしこ名をお聞きしました。 しこ名の方は地図に記入していますのでそちらを御覧下さい。(地図省略:入力者) にゃあげ……にあげ、田はいねあげから言いやすい形に変化したのであろ。 た(ん)だ……反田。ただと呼ばれることがあり、田んぼの単位で取ったのだろう。 あしゃん前……「あしゃん」と呼ばれた家の前の田んぼ。 いけがみ……池上。小さな池の上にあったからだろう。 たち……「たち」が大きな家という意味らしい。 水利について 干飯地区は水路も終わり近いため、水取りのケンカは曰く「竹やりを持ち出して」やっていたそうです。まさに「我田引水」だったと言われていました。寒水川の上のほうから堀を通して各田んぼに水を入れたそうですが、出来るだけ自分の田に水を入れておくため、水をせき止めて下の方へ流れないようにし、せき止めている板を取られないように家族で交替して見張っていたそうです。場所によっては(西ささごなど)は堀が通っていないので、天水でやっていたそうです。今はポンプとクリークから水をあげられるが、昔そんなことをしようものなら村八分になると言われていました。 今でも水をもらうために、切通川から寒水川の間の地区の人、数百人ほどで水を使う少し前に取水口の掃除に年一回行くそうです。この地域では7/7の七夕はせず、8/7にやっていたそうです。7/7頃は忙しいからではないかと言われました。 去年の水対策 去年は給水制限をされたため、大変だったそうです。対策として @昔の井戸を掘り返す。 A下の方にあったアオから水をポンプで上まで汲み上げて流した。 ということをお聞きしました。それでも水が足りなくなりそうだったそうですが、幸い良い米がとれたそうです。 もし去年のようなことが30年前に起こったら 一言。「作れない」そうです。上の方の水路に近い所のほうだけ作り、下の方の水の少ない所は諦めるそうです。 |