【三養基郡北茂安町東尾地区】 歴史と異文化理解Aレポート S1-29 1AG95151 田代典久 1AG95 中山祐治 調査日 1995年7月1日 ・北茂安町役場に生産組合長さんである弓政博氏の住所および地図を入手するが、地図に目印がなく、迷っている間に約束の時間に30分遅れてしまった。 ・弓政博氏は現在病気により入院中。よってその奥さんがお年寄り2人に声をかけて下さった。他にもいろいろかけて下さったが、当時は競馬に行ってしまっている人が多かった。 話を聞いた方 弓きくえさん(69) 大■きくのさん(69) 最初何を聞かれるのか分からなかったということ。(「しこ名を教えて下さい」と行っても知らないと言われてしまうので、襍談をしているうちに聞き出す。 しこ名は地図に示したとおり、主に彼女たちには東尾の南半分、東尾上地(あげち)周辺について教えて下さった。 水利について 東尾上地は東尾の北の方向、上流側と下流側の江口に挟まれた形となっている。水は東尾の西方(西尾の中)にある寒水川から取り入れられ、この水は西尾と東尾両方の地区で共同で使われるとはいうものの、水は上流から順にとられてしまうため、下流である東尾上地にはあまり水しか来ず、干ばつの時にはかなり水に困るとのこと。 昭和40年ごろのかんばつでは昔からあった井戸を広げてその水を使って凌いだとのこと。そして、去年はその井戸水を使って水不足を凌いだそうである(田の方から順に)配分については水の取り入れ口に正確な定規を当てたりしていてかなり厳しくしている。 井樋番は昔は区長や部落の生産組合長さんがやっていたが、現在はすべて電気でやっているとのことであった。争いは東尾の北の方といろいろやりあったそうで、干ばつの時は夜に上流に行って勝手に水を流したりしていたそうである。 水を田に入れる時期は6月のはじめ(この方々はあまり田をやっていないらしく正確には分からなかった)。田植えは6月中旬から25,26日。若い人たちは仕事とのかけもちで主に農作業は年配の方々の仕事だそうだ。 昔は堀があったが、最近圃場整備があったとのことである。江口は水利が同じでしかも南の下流側にあるが、筑後川から水をとるため、事実上東尾上地は最も水利の面で苦労しているということになる。 次に話を聞いた方は弓さんに紹介を受けた今村茂さん(61)。 この方には主に北の方のしこ名を教えてもらった。地図上に記入。この方はしこ名についてよく理解してもらっていたので、すぐに羅列して下さったので聞き出すのに苦労はしなかった。 今は奥さんと二人田んぼで畑(タマネギ)をしていらして、昭和23年から同じ場所でやっておられるらしい。当時は父親と共に経営していたが、昭和63年に父親が亡くなってからはすべての土地を今村茂さんが引き継がれたとのこと。因みに今村さんの持っている田んぼは緑の線で示した。 水利について 東尾北方の場合 やはり水は西尾の中にある寒水川から水を引いている。水利権はやはり西尾にあるのは当然のことで、争いも絶えなかったらしい。 昭和60年頃の干ばつでは寒水川上流の中原?の方に東尾から井手?に立ち番に行ったそうである。去年圃場整備前の水不足だったため、東尾上地同様、水を井戸から発電機であげて急場を凌いだそうである。 現在5月に、東尾から西尾に公役で分岐点から下の川浚いに行くそうである。西尾の人も監督をするそうです。そこで出たゴミはそのままゴミ捨て場に捨ててしまうそうです。昔、川浚いしたゴミは各自腐葉土を使って、麦のつちごい?を作っていたらしい。西尾は上地より上流にあるため、学校の横の堀から動力で水を上げている。 田への水入れは6月13日ごろだそうだ。 最後に途中早く終わったため、今後の農業への展望について伺ってみた。 米や麦は相場が決まっているため続けてはいくが、畑でやっているタマネギにも力を入れたいとのこと。ひまを見て仕上げて市場に出して行こうかなということでした。 お話をうかがった三名と弓政博さんの奥さん、そして役場の方に感謝します。 1995年7月14日 |