【小城郡三日月町織島銭瓶(吉原)・袴田地区】

 

『小城郡の水田調査』

 

L1-12 943175山下浩司、943179山田茂秀

 

 <銭瓶(吉原)>

@堤 静男さん(63歳)

・自分の田ん中のことは「ねだい(=周囲)」と言っていた。

 

・整備の時に赤泥をひいたので水はけが悪くなり、40年代以降、裏作(麦)があまりできなくなり、今ではハウスでイチゴを栽培。

 

・用水は今も昔も祇園川から直接引いている。昔は水を引きに岩蔵の方まで行っていたこともある。

 

・自治会、生産組合の範囲はほぼ地籍図のとおり。現在は、生産組合は吉原に含まれ、その組合長は上(かみ)と下(しも)(地籍図参照)で交互に務めている。もとは区長と組合長は一人が兼任していた。

 

・堤さん宅には、かつての土地利用図みたいなものが昔はあったらしいが、三ヶ月公民館の方に寄贈した(?)らしい。

 

・昔は大学生の同じような聞きこみには応じていなかったらしい。

 

 

――銭瓶は吉原の中に含まれると聞き、吉原の方へも行ってみた。

 

 

A納富宗人さん(71歳、区長 昭和36404449年、現 北浦ため池の水利委員)

・昔は六俵とれたら万作と言っていたが(平均は5俵ぐらい)、今では多い時には十俵近くまでとれるようになった。

 

・ハウスではイチゴ、ナス、キュウリを栽培。

 

・十二の坪はほとんど畑で野菜を栽培していたが、使っていたのは袴田の人。

・水を引きに銭瓶と吉原は共同して横町まで行っていた。本告(もとおり)は馬場まで。

 

・水が少ない時は、近くの吉田と一日交代で祇園川から水を引いた。

 

・裏作は小麦、ビール麦。

 

・北浦のため池は清水、原田から引いている。ため池はよほどのことがない限り使わないが、今年あたりは…。

 

 

――しこ名について当時を知る古老の方がこの2人くらいしかいないということだった。

 

 

 

<袴田>

納富 進さん(72歳、生産組合・区長兼任2回、北浦ため池委員総代、理事数回)

納富秀徳さん(44歳、生産組合・区長兼任1回)

・袴田は水が少なかったので、昔は三ヶ月町〔三日月町か:入力者注〕で一番田植えが遅かった。

 

・村同志より個人での水争いが多かった。

 

・昔は祇園川からの自然流水だったが、今は72くらいある井戸からのポンプアップやほい(貯水できる水路)を使っている。ほいは五反に2個(1ha4つ)の水の出口をもっている。(赤い取っ手の大きな蛇口みたいなもの)

 

・田ん中は特等から八等までの級があって、二十五坪の二反は「織島の特田」と呼ばれ、たくさん米がとれた。他、三十二坪の一部も「袴田の一等地」と呼ばれていた。(地籍図黒斜線部分)あまりとれない田もたくさんあって、十の坪、十七の坪、十八の坪、二十二の坪西半分、二十四の坪の一部、三十四坪などがそうであった。(地籍図囲み部分)

 

・昭和の56年の頃、「袴田の一等地」は一反250円(今の300万)もしていて、普通の田ん中の3倍はした。湿田であった七坪が一反40円だったのと比べると、その価値の高さは明確。

 

・終戦後の昭和28年以降、全部で裏作(大麦、小麦)ができるようになった。ハウスはなし。その代わり3軒ほど乳牛を畜産している。昭和3040年頃は半数の家が牛を持っていたそうだ。

 

・祇園川北の「川北東部改良区」を“上(か)の内”と呼び、川の南の「川北部」を“下の内”と呼んでいた。また、“上の内”を“上古賀”、“下の内”を“北古賀”、“南古賀”、“東古賀”に分けて、「古賀」ごとに12/151/28に祭りをしていたが、今年から1つにまとまった。(地籍図の赤斜線左肩上がりは“上古賀”、赤縦線は“北古賀”、赤斜線右肩上がりは“南古賀”、赤横線は“東古賀”)

 

・田を持たない家が4軒ほどあるが、生産組合にも一応入っている。

 

・北浦のため池からはす水(水不足の時、水を出す)する村は北部の吉田、岡本、杉町、吉原、銭瓶、袴田、赤司、本居、長神田、緑、立物、高田や南部の戊、佐織、三ヶ島の一部、初田、大寺だが、主には北部である。

 

 

 

<コメント・疑問点>

・しこ名に“深”がつくところは地面がゆるい、つまり湿田だったのだろう。

 

・坪の並びは銭瓶(吉原)はきちんとした千鳥式だが、袴田の方は祇園川が横切っているせいか、少し崩れている。

 

・袴田のお宅では圃場整備前の土地利用図を見せてもらい感動したが、坪の数が間違っているのを見て、また驚いた。

 

・しこ名についてもっと聞きたかったが、当時の人があまりおられなかったし、時間が足りなかった。

 

・袴田で十二の坪のことを“じゅうはち”、十三の坪の一部を“じゅうひち”というのか、相手も分からなかった。

 

・多くの家は訪ねなかったが、それぞれの家でかなり詳しく話を聞くことができたと思う。

 

・どの方も長く年月の経っていることをよく思い出して、話をしてくれたと思う。

 

・しこ名自体はあまり分からなかったが、普段話すことのない農家の人たちと話したこと自体がいい体験だった。



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