【小城郡三日月町三ヶ島(南部)、道辺地区】
歴史と異文化理解A
94093 高橋征生
聞き取り調査結果レポー卜
私たちが調査した地区は、三ケ島(南部)と道辺です。それぞれの結果は、地図に書き込んだようになりますが、そのほかに聞き取り調査によって分かったことも書きたいと思います。
《三ケ島について》
@しこ名……1つ1つの水田に名が付いているのではなく、多数の区画が同じ名で呼ばれていた。
A各村の範囲……自治会などの範囲は分からなかったが、三ヶ島は、地図の様に南北に分かれ、村では、それぞれ下三ヶ島、上三ヶ島と呼ばれている。
B圃場整備以前の各水田の水がかり、水利慣行
1)用水にもしこ名が付いている。おもに祇園川から水を引く。
2)明治、木正期の水不足の時には、協議によって水を引く時間を決める「はず引き」というものが行われていた。これには、必ず水番がついて監督していた。
それに由来したものとして、大和町の川上(龍登園)
3)道辺との水争いが起こったが、激しいものではなかった。
4)圃場整備後の変花としては、水利が良くなり「はず引き」も水争いも起きなくなった。
C圃場整備以前の田の上田・中田・下田の区別、収穫量その後の変化
1)昔も現在も、田における上・中・下の区別はなく、どの水田も平均的であるが一部に上田が確認できた。
2)以前は、単作であったが、現在はほとんど裏作を行い、麦を作っている。
3)反当収穫量の変化
明治期・5俵⇒20年前・10俵⇒最近・7俵⇒昨年・5〜6俵
●このような収穫量の減少傾向にある変化の原因は、裏作によって土地がやせたこと、肥料の規制などが挙げられる。
Dその他・上三ヶ島(桑原)地区の上天神といわれる場所は、以前は川向こうまであった。圃場整備後は、個入の持つ水田が広くなった。
◆聞き取りに協力して下さった方 山田米雄さん88歳
《道辺について》
@しこ名……ほとんどの場合、一つの区画が、それぞれのしこ名をもっている。
また圃場整備後には、土地は数字化された。
A各村の範囲……これについては、調査できなかった。
B圃場整備以前の水がかり・水利慣行
1)平川のいせきと、祇園川の方面からは地図の中央辺りから水を引いている。圃場整備後この地区の中央に水路が走り水利が向上した。
2)十二割という地区は、水害がひどかった。
3)昔平川には橋が架かっていなかった。
C圃場整備以前の上田・中田・下田の区別、収穫量その後の変化
1)税金の関係では分からないが、上中下の明確な区別はない。
2)字外ヶ里は、一毛作だった。
3)反当収穫量の変化
終戦後・7〜8俵t⇒最近8〜9俵
Dその他
1)圃場整備以前の昭和37年に交換分合が行われた。これには多少のもめ合いがあった。
2)高良田地区にある、八幡神社は、以前は地図中の八幡にあったが、水害のために現在の場所に移されたという説がある。
3)墓にも、ろくのつぼというしこ名が付いている。
4)地元では、圃場整備を構造改善と言っている。
◆聞き取り調査に協力して下さった方 原口政勝さん72歳
元補助監督
調査日:H6・7-11 文貴:高橋征生
班員:瀧谷・高橋(征)・高橋(良) 26班
コメント
●この村の方は、皆とても親切でした。訪ねた家々でごちそうにもなりました。この村の若い方たちは、町に働きに出ているそうで、また、農繁期だけ作業をしたりするそうです。
このようにほとんどの家庭が兼業農家でした。数人の若い方(村の基準で言えば)に尋ねてみましたが、「しこ名」については、ほとんど知らないようでした。
しかし、「しこ名」について詳しく知っている御年配の方を紹介して下さったり、とても親切でした。それで、私たちは、結局御年配の方の話を聞くことになりました。
最初話を聞かせて下さった山田さんは、88歳ですが、とても健康で一時間ぐらい話を聞かせてもらいました。
次に訪ねたのは源口さん宅です。原口さんは72歳ですが、まだ働いておられ、私たちが訪ねた時、作業から帰ってきた様子でした。それにも拘らず、とても詳しく話をして下さり、また、圃場整備後の地図を見せてもらいました。
●私たちが感じたことは、親切であるということと地域の結びつきが強いということです。また疑うということを知らないのではないでしようか。それゆえ、私たちを家にあがらせてくれる。逆に私たちの町では、そのようなことは可能だろうか? 鍵をかけずに外出しているという村の事実がそれを証明しているのではないでしょうか。
●広い村を、徒歩で調査するというのは、とても疲れることでした。また暑さもかなりこたえました。しかし、予想以上に、良い調査ができたのではないかと思います。このような調査は、初めてだったので良い経験になりました。