【小城郡三日月町 三ヶ島・道辺地区】 歴史と異文化理解Aレポート L1-11 943095 瀧谷善太 <佐賀県小城郡三日月町三ヶ島(南)> @しこ名について まずこの村のしこ名の特徴は、田ん中一区画ごとにではなく、何区画かまとめて付けられているという点である。何度か先方にも一区画ごとのしこ名はないのか尋ねたが、答えはNoであった。また、橋や道のしこ名についても尋ねたが、祇園川の橋は現在の名称と同じで、道には特に付いていなかったということだった。水路のしこ名は教えていただいた。 A村の範囲 地籍図の分け方と同じだが、三ヶ島は昔から「上(かみ)三ヶ島(又は桑原:くわはら)」と「下三ヶ島」とに分かれており、我々が指示を受けた三ヶ島(南)は下三ヶ島のことであった。 Bその他に尋ねたこと、話していただいたこと ・この村では昔から、大和町川上(現在の旅館、龍登園のあたり)から用水をとっていた。 ・川上の水は、三ヶ島:佐賀=3:10の割合でわけていた。 ・用水路の各分水堰には「水番」という当番制の番人を各村おいていた。 ・水不足の時には「はずびき」といって、各村で協議して時間を決めて、用水路の水を一つの村にひくというものをしていた。 ・水不足の時の「はずびき」をめぐって用水路を使う村々と水争いをした。 ・三ヶ島にはあまり田ん中の階級はないが、十六坪、十七坪あたりが上田だった。 ・過去、上田とそれ以外の田には税金の差があったが、現在は差がない。 ・一反当りの収穫量は、圃場整備以前は五俵、以後は十俵、現在は七俵(昨年は五~六俵)であった。 ・圃場整備直後の収穫量より現在が少なくなった理由は、(1)裏作の影響、(2)人体を害する薬品が使えなくなったことである。 ・昔は半作が多かったが、今は麦の裏作がほとんどである。 ・圃場整備によって変わったことは、(1)水利がよくなり「はずびき」がなくなった、(2)田ん中が広くなった。 Cお話をしていただいた人 山田米雄氏(88歳)、元交換分合(昭和30年代)役員 交換分合…分散していた自分の土地を1つにまとめる。 <佐賀県小城郡三日月町道辺> @しこ名について この村は一区画ごとにしこ名がつけられているのだが、平川沿いの土地は「外ヶ里」とおおまかに呼ばれており、その中に「天神森」や「笹口」という田ん中があったということだ。また、現在「高良田」にある八幡はもともと「八幡」という田ん中の一部にあり、水害で現在の場所に移されたという説があるそうだ。圃場整備後には「〇坪」という名前ではなく、「〇〇-〇」例えば「45-6」のような名称で田ん中を呼んでいるようだ。 A村の範囲 地籍通りだが、我々の担当地区の正式名称は「大字道辺字道辺(おおあざみちべあざみちべ)」であり、他に「大字道辺字芦田ヶ里」や「大字道辺字本村」などがある。 Bその他に尋ねたこと、話していただいたこと ・昔は道辺の田ん中は、芦田ヶ里からの水を使うもの、祇園川の水を使うもの、平川の水を使うものと三区分されていたが、現在では村の中央に大きな水路ができてそれで全てまかなっている。 ・昔は祇園川にかかる橋は道辺橋のみで、平川には橋がなかった。 ・村の中には上・中・下田のという区別はなかったが、南東部の「十二割」付近は水害がひどかった。 ・現在ではほとんどの田ん中が二毛作だが、昔は村の東側の平川沿いは一毛作だった。 ・一反当りの収穫量は、圃場整備以前は七~八俵で、現在は八~九俵とれている。 Cお話していただいた人 原口政勝氏(72歳)元構造改善(=圃場整備、昭和55年)補助監督 今回の調査を通して感じたこと まず村人が圃場整備は知っているものの、しこ名というものをほとんど知らない事を痛感した。40・50代の人はもちろん、60代の人に聞いても御存知ではなかった。よって今回の調査に協力していただく人の条件とは、70代以上の男性ということで非常に限られており、その該当者は各村ともお一人しかおられなかったので、規定であった「二人以上に尋ねる」ということは不可能であった。しかし、我々が尋ねたお二人はともに各村の区長さん、生産組合長さん、そして村の古老達が口をそろえて「あの人ならば…」「あの人が知らなければ、ちょっと…」というほどの人物で、事実、両人とも抜群の記憶力で、暑い中、長い間ご協力いただいた。またこれは調査とは関係ないが、よそ者の我々にあたたかく御指導していただいた村人に比べ、都会の中の冷たい人間関係をあらためてみなおすきっかけともなった。酷暑の中、汗をふきつつ歩いてきた我々を冷たい麦茶と、自分の畑でとれたというトウモロコシで迎えてくれた小城郡の人々に感謝しつつ、今回の調査を終わりたい。 班26 班員:高橋(征)、高橋(良)、瀧谷 |