【小城郡三日月町樋口 江利地区】 943127西川良子、943140藤重京子、943166六車 心 池田 操さん(70) 池田寿太(72) 池田作見(90) 動き回った割には、成果が少なかったので残念だった。まず、ゲートボール場をたずねたが誰もおらず、家をたずねたところ、老人は公民館に集まっていると教えていただいた。そこで、90才の池田作見さんに、色々質問したが、彼は「一坪、二坪…と言っていた」と言いはるので困ってしまった。その場にいる人々も分かっていないようなので、ここであきらめようと思ったが、役場に行き、誰か詳しそうな方を紹介していただいた。そして家までたずね、詳しい話をうかがうことができたが、少々主旨とは異なっていたため、困惑してしまった。次に隣家をたずね、池田寿太さんの話をきいた。彼が言うには、この辺では本当に一坪、二坪…と言うらしい。 ありとあらゆる資料を見せていただいたが、私たちの調査に通じる資料は残念ながらなかった。更に、自治会長さんなどが、出かせぎのため留守だったので、調査が思うように進まず、とまどってしまった。しかし、役場の九大の先輩に助けていただいて、とてもありがたかったです。 時間の関係で樋口のほうは調査できなかったのが心残りです。 <集落名「江利」の由来> 鎌倉時代の正応元年(1288年)の関東御教書によると、「恵利村」とあります。これがのちに「江利」にかわったと思われます。 郷村帳によると異なった呼び方として「瀬道佐(せどうさ)」または「仙道山」と呼ばれていました。これは室町時代の大永元年(1521年)に創設された仙道山勝厳寺の山号からきたとの説が有力です。 <江利地区地図横の書き込み> 〔池田 操さん談話メモか:入力者注〕 ・「かくみち」によってわかれる。 ・南に下がるにつれて上田。上田:1反につき10俵(現在、区画整理が正確になったため8俵に)、中田:7〜8俵、下田:ひえを植えていた。 ・北の大寺や、南の立石との水争い。水争いをなくすために、お酒を上流の人に贈る慣行があった。 ・下が上田になるのは、泥土を田にくみ出した結果、肥沃になったから。そのことを「ごみ上げ」と言う。 〔池田寿太さん談話メモか:入力者注〕 ・今は、「だんがん排水」により湿田の影響なし。 ・彼は数字で田ん中を呼んでいた。だから読み方を教えてくださった。 |