【小城郡三日月町織島今市・東分】 歴史と異文化A ‐小城郡三ヶ月町今市の地名調査に関するレポート‐ 36班 L1-12 943167守 政毅 <調査範囲>三ヶ月町今市及び東分 <聞き取り者>今市1名(深町さん 72歳)、東分3名 <聞き取りの状況及び結果> 【今市】 今市の範囲が比較的狭く、また農家数が少なかった。 やっと探し当てた深町さんによると、田んぼに個人の家で呼んでいるしこ名というものはなく、登記している地名、即ち例えば「一丁原(いっちょうばる)の田ん中」とか、「竜王の畑」と呼んでいたらしい。これは深町さんが小さい頃からそう呼んでいたそうなので、確かな情報と思われる。その他の情報として、あぜ道のことを画道(かくどう)と呼び、幅3尺のものであったそうである。ただし、村の範囲はよく分からないそうである。 苦労話として一つ付け加えるならば、午前中いっぱい、今市と東分の境が分からずに、両境をぐるぐる暑い太陽の下歩き回ったことであろう。 <整理> しこ名:特になく、地名を使っていた。(例:一丁原の田ん中) 田:画道と呼ばれるもので区分。 用水:清水(?)から引いた水を田んぼに入れていたが、用水路の名前は不明。 村の範囲:具体的には不明。ただし、一村20町毎であった。(→東分の方で判明。地図参照) 【東分】 たまたま午前中にゲートボールをしていた老年の方々を見つけることができていたので、それが終わってから聞き取りをすることにした。その間に今市の聞き取りを終了させておいた。午後を少しまわった頃に再び行ったところ、公民館で集まっていらっしゃったので、そこを訪ねた。昼食は済まされていたが、「来るタイミングが悪い」としかられてしまった。一応詳しい話をうかがえたので下記に書きたいと思う。 しこ名:各家のしこ名はあったそうだが詳しいことは忘れてしまった。 「(数字)つぼ」、「(数字)反角(タンカク)もしくは角」(谷の所にある田は「柳谷」など)と呼ばれていた。1ヶ所、「島(田んぼの中に田んぼがあったのでの)」と呼ばれるところがあっておもしろい。 区分:今市の範囲が聞けた。(地図へ)(地図省略:入力者) 東分と西分は元は1つでフジオリと呼ばれていた。(圃場整備後に分かれたとか) 用水:(詳細は地図に記入)(地図省略:入力者) 東分と西分にはそれぞれ2つずつ堤があり、大地町・今市に水を供給した。(水利権の問題は厳しかった。) 日照りの時は水をどのくらい下流へ流すかが問題に。 水どまりの良し悪しで、下田(ヘタ)と名がついていたところもある。 現在は、下の貯水池に水を貯めて、ポンプで上に上げており、圃場整備後の土地の改良により保水がよくなり、水が半分で済むようになったので、それほど深刻な問題でなくなった。 田んぼの区画:画(カド)道と呼ばれる幅3尺のもので区切られている。 <感想> 今市ではあまり協力が得られず、また、知らないという方が多かったため、ほとんど成果が上らなかった。 東分の方も忘れていた方も多く、こちらも同様の結果に終わった。20年前のことを見知らぬ我々が何の連絡もなく聞き出すこと自体に無理があったように思われる。我々の聞き方が悪かったのかもしれないが、しこ名について、ほとんどと言ってもよいほど分からなかったのは残念でならない。現地調査の難しさを感じざるを得ない。 ‐7月11日における佐賀県小城郡織島ヶ里内(三日月町)の地名、その他の調査報告‐ 36班 L1-12 943172柳原正一郎 <調査範囲>三日月町 今市(いまいち)・東分(ひがしぶん) <聞き取り者>今市1名、東分3名 【今市】 70代の古老に聞き取り調査。 圃場整備前の水田について:“金井堂んところの田ん中”、“一丁原の田ん中”等、字名を使っていたと判明。しこ名についてはそこまで細かいところまでは言っていなかったという。 古くから地元に住まれていた方で、現在は圃場整備後等により、水田のみならず道路も大幅に変わってしまったと話されていた。水田と水田は画道(かくみち)という幅3尺ほどのあぜ道で区分されていたという。なお、調査結果から見て、今市の水田ならびに村範囲はかなり小さいものだったと思われる。(なお、村範囲は20町程度毎だったそうである) 【東分】 70代から80代の古老に聞き取り調査 東分の字に見られる竜王は、近くの竜王遺跡(古墳時代)からきたということ、その他に東分には多数の遺跡(塚、古墳)が存在するということ。(例:竜王〜番) 圃場整備前、東分と西分は一つであり、フジオリと呼ばれていたこと。 しこ名について:圃場整備前、水田は細かく分かれており、それぞれしこ名は存在した。ただ、圃場整備後(東分は国からではなく、村で共同して圃場整備を行なったという)は、水田の形が完全に変わってしまい、水田と水田の特徴も失われたという。そのため、しこ名の名前は聞き出せても、場所を指し示すのは、ほとんど不可能だそうである。 使用されていたしこ名: ・〜坪、〜角、〜谷、“島”、〜本松。(例:五反角、柳谷、ししが谷、千本山) ・“〜坪”は地主によって主に呼ばれたそうである。 ・“島”とは水田の中にぽつりとあった畑だそうで、良い土を持ち、多くの作物が実ったそうである。 ・日照や水の便が悪い谷間にも小さな水田が作られ、“谷”の名で呼ばれたそうである。 村範囲について:(図参照のこと)(地図省略:入力者) 用水路等、水源について:農民にとって水田への水の確保は何よりの懸念だったそうである。そのため、古老の方々も水源についてはかなり細かく話されていた。 フジオカ(東分、西分)には堤が2つずつあり、本堤とも呼ばれていた。東分、西分でたくわえられた水が大地町、今市に流されたという。そのため、一度干ばつに見舞われると、たちまち水をめぐって争いが起きたという。そのため、2・3日のうち、1日は下に水を流すという取り決めがなされていたという。(それでもいよいよの時は、消防所からポンプを引っ張り出してきてまで、水を汲んだという)ただ、圃場整備後は用水路・ポンプ等も整備され、以前のような水争いはもう起こらないそうである。 なお、水をやるにしても、赤土の水もちのよい水田と、ジャリの多い水もちの悪い水田があり、そんな水田は下田(ヘタ)と呼ばれていたそうだ。いくら下田とはいえ、自分の田ん中はかわいいもので、懸命に水を撒いたものだと古老の一人が語っていた。 ※現在は半分の水量で足りるそうである。 〔水の流れの図省略:入力者注〕 東分には貯水権があり、下方にも水を受けとる権利があったそうである。 水田は必ず道路(画道)が水路に面しており、区分もしやすくなっていたそうである。 その他: 圃場整備前と説明すべきである。条里制の名前を出しても分からない。 調査をスムーズに行うためには、話し中の古老に聞くと話して下さりやすい。 <感想> 地名調査を通じて、農民の水田・畑にかける熱情が伝わった。彼らは土と水とともにあるのだ。親切に説明してくれた皆様に敬意を表したい。 ‐小城郡三日月町今市・東分の地名調査に関するレポート‐ 36班 L1-12 943134濱中俊英 【今市】調査対象人:深町様(72歳)1人 しこ名についてはいろんな人にあたってはみたが、ご存じの方はいらっしゃらなかった。 ※深町様の話では、一丁原(いっちょうばる)などの地名で呼び、特にしこ名はないということだ。子供の頃からそう呼んでいたそうなので間違いないだろう。 村の範囲:地図に別記した通りで、20町毎で1つの村を形成。 用水の名:特に名前はないそうだ。 ※あぜ道のことを画道(かくみち)と呼んでいてその幅は3尺ぐらい。 今市の範囲は比較的狭く、民家も少なく、しかもしこ名を知っている人がいなかった。 【東分】調査対象人:3人(陣内様 他、70〜80代) ゲートボール後、公民館に集まって食事をしていたお年寄りの方々に話を聞いた。少々いやな顔をされたが無理をしてうかがった。 ・東分は貴重な遺跡の宝庫だと自負しておられた。 ・圃場整備前、東分と西分は1つであり、フジオリと呼ばれていたそうだ。 ・しこ名についてだが、ここでも地名を使っていた。 ・用水について、清川(?)から引いたり、筑後川の水を逆流させていたりしたそうだ。用水路の名前は不明である。また近くの堤からも水を引いていて、東分から今市へと水が引かれていたそうだ。 ・昔は干ばつがひどく、水利を争ったこともあったらしい。 上流の人に水に関する権利はあったらしい。 東分・西分にはともに2つずつ堤があり、大地町・今市に水を供給していた。 日照りの時は2・3日に一度、下へ流すか取り決められていたらしい。 圃場整備後、水に関する問題は解決したそうだ。 谷に自水がひける所は水田にしたらしいが、この辺りは全体的に畑が多かった。 水どまりの良悪で下田(へた)と名がついていた。 東分には貯水権があり、下方にも水を受けとる権利があったそうだ。 しこ名について:各家のしこ名はあったそうだが、詳しいことは忘れていて、知ってらっしゃる方がいなかった。 「〜坪」、「〜反角(たんかく)・角」、(谷にある田は柳谷など)と呼ばれていた。田んぼの中に田んぼがあって、「島」と呼ばれていた所があり、おもしろいと思った。 圃場整備前は、水田は細かく分かれており、それぞれしこ名は存在した。ただ、整備後(東分は国からではなく村で共同して圃場整備を行なった)は水田の形が完全に変わってしまい、水田と水田の特徴も失われたという。そのため、しこ名の名前は聞き出せても、場所を指し示すのは不可能に近いそうだ。 区画について:画道と呼ばれる幅3尺のもので区切られている。 <感想> 暑い最中、歩き回るのはしんどかった。お年寄りの方も結構私達を厚遇してくださり、いい話がたくさん聞けた。残念ながら、肝心なしこ名についてはどなたに聞いても知っている方がおらず、分からずじまいになってしまった。貴重な経験ができてよかったと思う。 |