武雄市西川登町小田志
 馬場博子
廣田有子
溝上千雅子
 森本実緒
山門亜喜代
      <お話を伺った方>
 森山好春さん(昭和8年生まれ 区長)
       釘抜澄雄さん
        樋渡敏信さん
  奥川喜代二さん(昭和8年生まれ)
       一ノ瀬辰巳さん
樋渡さん(樋渡波信さんの母、大正生まれ)

    多数の小田志区役員の方々
         どうもありがとうございました

西川登町小田志
<しこ名一覧>
アキヤマ
イチノサカ
イワハヤ
オギノオ(扇の微)
オタチミ(お立ち見)
カサギ
カミンバタケ(神の畑
クサズミ
ゴウノキ(郷の木)
コタジヤマ(小田志山)
スミヤキ
タナカ(田中)
ナカバタケ
ナンコシ
ハヤンタニ
ヒノダシロ(日ノ出城)
フルワン
ヘイダンハ
メツチ(目土)
ヤマシタ(山下)
ヨイヨイサカ(ヨイヨイ坂)
 アミダンハカ
イチンタニ
 ウエミチ
オタケヤシキ
オノウエ
カマンサカ(窯の坂)
キンタガワ(きんた川)
クラタニ(倉谷)
コクンゾウサン(コクンゾウ山)
シイノキバシ
ゼンキョウゴエ(ゼンキョウ越え)
ダ(ン)ノウラ
ナキビシサン
ハイガタニ(張ヶ谷)
ハリサカ(ヒヤーサカ)(針坂、這坂)
ヒュウラクミヤー(ヒュウラクマイ)
ヘイダンタニ
ホンダニ(本谷)
ヤマイモジャーラー
ヤーシャータニ(ヤサイタニ)(野菜谷)

1月9日、私達は佐賀県の小田志で現地調査を行った。
 この土地で失われつつある通称地名を古老から聞き取り、それを記録して後世
に残し、そのほか記録されずに忘れられつつある昔の姿、記憶を記録するのが
 目的である。

<一日の行動記録>
 AM lO:45 現地到着、バスを降りる。
 バスを降りた私達5人はそれぞれの目的の家、釘抜澄雄さん宅、樋渡敏信さん
宅を探すが、見つけることができず、近くの家に行って道を尋ねることにした。
そこは一ノ瀬辰巳さんという人の家で、これは後で知ったことだが、その村で
「長老」と呼ばれている人の家だった。後で再び訪れ、話を聞かせてもらうこ
とになる。そこで道を教えてもらい、それぞれ班に分かれて目的の家に向かっ
た。

(馬揚、廣田、山門 班)
樋渡さん宅を訪ねて、話を聞くことにした。お年寄りの方がいろいろ知ってい
るだろうからと言って、おばあちゃん(83歳)も呼んでくれて、2人で質問
に答えてくれた。しかし、この辺りももうすでに山がゴルフ湯建設のためにつ
ぶされたり、高速道路が通ったり、と昔とはずいぶん変わってしまって若い人
には詳しいことはもうあまりわからないらしい。しこ名はあまり知らない、と
いうことだったので昔の村の生活について聞くことにした。話を聞いている途
中で、もう一つの班が訪ねた先にちょうど村のお年寄りが集まっているので、
一緒に話を聞かないか、と誘われ樋渡さんもそうした方がいろいろ詳しい話が
聞けるだろう、とおっしやつたので、合流することにした。

 PM12:00頃
 樋渡さんのお宅で昼食をとらせてもらうことにし、その後もう一つの班と合
流することにした。
 PMl:00頃
 昼食をとった後、樋渡さんと一緒にみなさんが集まっておられるという森山
好春さん宅に行った。
(森本、溝上班と合流)

(森本、溝上班)
 釘抜さんの家を訪ねると奥様が顔を出された。奥様は、
 「うちの人、今森山さんとこにいっとんしゃ−よ。そこにいってみらんね。」
とおっしやつた。そこで、私達は森山さんの家を詳しく教えていただき、そこ
へ向かうことにした。
 あぜ道を二人でとぼとぼと歩いていると、目の前から白い軽トラックが近づ
いて来るのが見えた。あわてて道の隅によけていると、トラックは、私達のす
ぐ横で止まった。窓は開いており、中からとても人の良さそうな肌艶のよい方
が顔をだした。
「森本さんやろ?」
私達は困惑気味で返事をした。
「ちょっと家に帰ってくっけんが。あめのふっとったけん‥・。(ここで服を
さわり濡れていることを示していらっしやつた。)先に公民館にいっとってくれ
んね。」
私達は状況が飲み込めずにいた。
「釘抜さんはそこにいらっしやるんですか?」
そのかたは苦笑しながら
「わたしです。」
とおっしやつた。
この方が小田志区の公民館長、探し求めていた釘抜さんだったのである。失礼
なことをしてしまったが、なんとか私達は釘抜さんに公民館の湯所を教えてい
ただいた。
私達がその後歩いて公民館にたどり着いた時、ちょうど着替えを済ませた釘抜
さんがトラックで到着した。釘抜さんの案内で、私達二人は公民館の中へと入
つていった。その日はちょうど消防団の出初め式があるということで、暖かい
部屋の中にはなんと十数人の地区役員の方々がいらっしやつた。釘抜さんは、
私達のことを事前にお話していてくださったらしく遠方から来た私達を、皆さ
ん暖かく迎えてくださった。
ちょうど11時頃だった。

その後、自己紹介などをして談笑していると、12時になり、消防団の出初め
式が殆まった。釘抜さんと私達二人は、公民館の中からその様子を見物してい
た。30分ほどして出初め式は終了し、他の皆さんも公民館に戻っていらっし
やつた。外はとても寒く、雨も降っており、とても辛そうだった。
その後20分ほど、公民館で小田志について聞いていたが、新年会をするとい
うことだったので、公民館を閉めて、区長の森山好春さんのお宅に行くことに
なった。私達は森山さん宅に向かう車に同乗させていただいた。森山さんのお
宅につくと、新年会の準備がされていた。おじやましていいものかと、どうし
ようか迷ったが、結局おじやまさせて頂くことにした。皆さん、とても親切な
かたばかりで、一緒に昼ご飯を食べようと誘っていただいた。
10分ほどして馬湯、廣田、山門班も森山さん宅に到着し、合流した。
<全員>
 次に訪ねた家は区長の森山好春さんの家で、その日はそこで新年会が行われ
るということだった。10人から15人の人が集まっていたので、いろんな人
に話を聞かせてもらうことにした。新年会という場でありながらもみなさん親
切に対応してくださり、いろんな話を聞かせてくれました。
 一通りそこで話を聞いた後、この村の長老が、しこ名のことにはくわしいだ
ろう、ということで、その人を紹介してもらうことになった。実は、この長老
が、最初に訪れた一ノ瀬たつみさんだった。一ノ瀬さんはしこ名やその湯所ま
で詳しく教えてくれた。(〜Pm4;15)ここでとりあえず調査は終わり、
バスに戻った。普段聞く事ができない話を聞いたりして、貴重な体験ができた。
今回の調査は私たちにとってとても思い出深いものになったと思う。

調査して分かった事
<村の水利>
 水田に引く水は、近くの川やため池から得ていた。その利用法は、まず川や
ため池から水を田に引いてきて必要な水を取りいれる。残った水は田のまわり
の水路をとおって川に戻す、と言うものである。この時ポンプを使って水を引
いてくるのではなく、その土地の勾配を利用して引いてくるらしい。また、た
め池にはため池を管理して、水をみんなに振り分けるため池番がいて、雨がふ
つている日以外はため池の管理に努めていた、ということだ。他にも、11〜
12年前までは井戸を利用していて、多い人で2つ〜3つ持っていたらしい。
 上り立の方ではその他にも雨水や出水(湧き水のことらしい)も利用してい
たとか。
 また、小田志は山村であるので他の村と用水を共有することはできないので、
水は自分たちの村だけで使っていたらしい。
\
*小田志のため池は明治くらいからあり、土でできている。補修工事のみをし
 て、現在まで使ってきた。

小田志にあるため池の名前
<共通のもの>
 白木原のため池(昭和20年頃のもので最も新しい。)、秋山のため池(2
つ)、這坂ため池(2つ)、早ノ谷ため池、張ヶ谷ため池、大川内ため池(小田
志ため池のこと。村ではこう呼んでいる。)の8つ。
<個人のもの>
 倉谷ため池、なんこしため池、尼無(尻無か)ため池、の3つ。

*1994年の大干ばっのときは、これらのため池の水が利用された。もとも
とため池の水の利用方法は農業用、防災用の2通りで、田に引いたりもするが、
火事や、突然の災害のときに備えて、常に一定の水を残している。もし、この
大干ばつが50年前に起きていたとしても対策は同じだっただろう。

<村の名前>
 小田志という名前の由来は、アイヌ語の「コタンシ」である。この言葉は、
「大いなる土地」という意味を持つらしい。その言葉が、
 コタンシーコタシーコタジ(小田志)
と言う風に変化し、今の小田志という名前になったということである。その事
を教えて下さった方は、こうおっしやつた。
 「そがん考ゆっと、ずっと昔はこの辺もアイヌの支配やったってことやろ−
ね。つまい、昔はアイヌの日本全部ば支配しとったんやろうね。そいのだんだ
ん勢力ん押されていって、九州からず一っとあがっていって、いまは北海道に
しかおらんごとなったっちやなか?こがんしていろいろ考ゆっと、いろいろ歴
史とかあって面白かろうが?」
 佐賀弁もさる事ながら、この授業をよく理解していらっしやるな、と正直言
って、私は驚いた。                  、

*上記については疑問がある(服部注)

<村の発達>
 村に電気がきたのは約75年前(樋渡さん宅のおばあさん(83歳)が8歳
の時)らしい。しかし、あるとはいっても、一軒につき茶の間に一つくらいで
あった。また、村の山を売って電気をひいたそうだ。村にプロパンガスがきた
のは、34,5年前の昭和41,2年だった。電気、プロパンガスがくる前は
かまどをつかっていた。
 ちなみに電話は昭和42,3年にむらに7,8台だけあった。その後、昭和
47,8年に一斉に入ったらしい。

<村の生活に必要な土地>
 秋山という入り会い山があり、現在の嬉野T.Cの辺りである。現在もその
一部は残っているが、大部分は公民館と運動場になった。また、煮炊きなどに
使っていた薪は裏山から取ってきていた。タダというわけではなく、一応その
山の持ち主にお金を払っておき、自分で取りに行っていた。

<米の保存>
 米を農協に出すようになる以前は、個人で米商人に売っていた。家族で食べ
る飯米のことを保有米(ほゆうまい)といった。
 お米は保存するために甕に入れられていた。収穫の時に、種籾と家で食べる
用の米とは別にして保存していた。(種籾は皮を多めに残しておく)その後、
甕から大きな缶に入れるようになった。
 ネズミ対策として、杉の葉っぱをむしろに挟んで、米の入った俵の横におい
ていた。その他にもネコやねずみ取りが用意され、ネズミから米を守っていた。
そのねずみ取りの中には、ネズミが入ってくると上から重りが落ちてきてネズ
ミをしとめるというものがあった。
 50年前の食事は米と麦を交ぜたもの(米:麦=6:4)があった。また、
サツマイモを干して小さくくだいたものをまぜたかんころめしというのもあっ
た。(かんころとはさつまいものことをいうらしい。)米がなかったときは、
水をたっぷり入れた雑炊を作り、量を増やしてごまかしていたらしい。


<村の動物>
 各家に牛が一匹くらいいた。その牛は主に田畑で活座することが期待されて
いたため力の強い雄牛であった。田に入れる肥料は牛の糞だった。
子牛を買い大きくそだて農家にそれを売る博労(バクリュウ)と呼ばれる人が
いた。「その人は口がうまかったんですかね?」と聞くと、「そうじゃったろ
うね〜」と口をおさえはずかしそうに笑った。
 馬は近くの川で洗い、特に馬洗い場のようなものはなかった。また、「ウマ
ステバなんかあったんですか?」と聞くと、「ウバステヤマね〜、あったかも
しれんね〜。」とまた口をおさえて笑っていたが、なにか勘違いをしていらっ
しやるようだった。結局、姥捨て山はないとのことだった。

<村の道>
 魚は川棚、有明海、彼杵(長崎)の方から売りに来ていた。その魚は塩をふ
つて一夜干ししたものであった。人々は麦、あずき、米あるいはその漁師さん
の欲しいものと交換することで魚を得ていた。
 塩については、川棚、有明海、彼杵に塩水を取りに行き、それをたるに汲ん
できて、自分たちでかまで煮詰めて作っていた。

<祭り>
   *公民館横の天満宮で天神様をまつるまつりが昔から
                        行われている。
   *6月 田祈祷(田植えが終わってから豊作を願い、
                     村全体で行っていた。)
   *7月15日 大河内にある八坂神社の祇園祭
   *9〜10月にかけて願成就でお礼の意味を込めて刈り取りの
                     際にお祭りを行っていた。
  *12月1日、15日 氏神の集り (昔は2回行われていたが、
               現在は12月1日の1回かぎりである。)

<昔の若者>
 田植えがすんだら、レコードを鑑賞したり、歌を歌ったり、隠れて集まって
酒を飲んでいた。嬉野や武雄の映画館に映画を見に行っていた。(当時のチケ
ット代は4円99銭)また、自転車で3人乗りをして楽しんでいたらしい。地
方巡業の劇団が公民館に来てそれを見たこともあった。楽器や滴りを用いて祭
りの練習をした。練習というよりか、むしろ楽しんでやっていたそうだ。青年
クラブで飲み会をしたり、男女入り交じってお見合いのようなものもしたらし
い。村の中には恋愛について指導したり相談する人がいたそうだ。だから、恋
愛の進み具合について聞かれることがあったそうだ。ともに会うことだけでも
うれしいことで、ましてや握手をしたり手をつなぐだけでもドキドキしていた。

調査を終えての感想

森本実緒
 このレポート作成を通じて、小田志のたくさんの人達の温かさに触れること
が出来た。見ず知らずの私達に、誰もが本当に親切に質問に答えて下さって感
激した。
 考えてみれば、小田志の人々の自らが住む場所に対する誇り、地域の強い連
帯感は私の住んでいる所では今、まったく失われてしまっている。だから、そ
れがとても印象探く、うらやましいと思った。小田志のホッとするような懐か
しい雰囲気をいつまでも残していて欲しいと勝手ながら願うばかりである。

溝上千雅子
 今回完成させた地図を見て思ったことなのだが、小字の小字図での位置と、
実際にそこに暮らす人の言う位置に少し違いがあった。また、しこ名の指す地
域が小字の境界をまたいでいるものもあった。勝手な考えなのだが、私はしこ
名と小字の間には、思ったほど深い関係はないように思った。一方、しこ名は
現地の方々の生活に深く根ざしているような印象を受けた。
 私は今回とても親切に応対していただいた小田志の皆様に、とても感謝して
いる。一人暮らしを始めて、久しぶりに人の温かさに触れたように思う。正直
に言えば、最初は面倒だなあと思っていた現地調査だが、実際に行ってみて、
本当に良かった。友達ともいっそう仲良くなることが出来たし、小田志の方も
本当に良い方ばかりでとてもよくしていただき、楽しい時間を過ごすことが出
来た。
 今回のようなことがなかったら、一生知り合うこともなかったかもしれない
小田志の皆様とであうことができ、また、その土地についての詰も聞くことが
出来てとても良い経験が出来た。普段何気なく通り過ぎている場所もこうして
いろいろと調べてみると、新しい発見や、新しい人との出会いなど、たくさん
の経験をすることが出来るので、本当に良いと思った。

馬場博子
 今回行ったところは、武雄市西川登町小田志という、私にとってはじめて行
く土地であった。最初は、方言など、わからなかったらどうしようと不安ばか
りだった。しかし実際に行ってみるとそんな不安を抱えていた自分がおかしく
なった。小田志に住む人は親切な人ばかりだった。正月開けの忙しいときだっ
たにもかかわらず、いろいろな人に協力を頼んでくださり、そのおかげで、た
くさんの話を聞くことが出来た。小田志の人々にとても協力的にしていただい
たおかげで、調査もとてもやりやすかった。
 実際に地域の人々とふれあう事によって、授業だけでは学べないことをたく
さん学べたような気がする。はじめて行く場所ではじめて出会った人とあんな
に楽しく過ごす事が出来たし、とても良い経験をさせてもらったと思う。


廣田有子
 小田志の調査を終えて私が思うことは、最初に抱いていた小田志のイメージ
と、実際に訪れてみてのイメージがかなり違っていた事だ。最初のイメージで
は、小田志は静かな町なのだろう。そこに暮らす人達も、おとなしめの方ばか
りなのだろうと思っていた。実際に訪ねて、確かに小田志は静かで良いところ
だなあと思ったが、お話を伺った皆様はとてもきさくで明るい方々だった。お
話を聞いている私達の方がおとなしいくらいだった。
 いろいろと聞かせていただいたのだが、本当にたくさんのしこ名があった。
地域の方々がしこ名についてとても一生懸命話してくださり、私達のためにと
思ってくださっているのがひしひしと伝わってきた。また、私は大分から来て
いるので、佐賀の方言に触れる事ははじめてだった。しかし、方言もわかりや
すく説明していただいたり、たくさんのお心遣いをいただいて、本当に感謝し
ている。
 ほんのわずかな時間だったが、小田志の方々には、小田志についてだけでな
く、人とのコミュニケーションの大切さも教わったような気がする。本当に良
い経験が出来たと思う。

山門亜喜代
 今回の体験を通して「しこ名」という普段の生活ではほとんど縁の無い物に
触れることが出来た。私は三重出身であるが、そういえば私の住んでいる地域
にも今回のようにたくさんではないが、しこ名のようなその土地の人にしか分
からない言葉があったように思う。そのままにしておけばなくなってしまうよ
うなものを記録として残すことに関われたのはよい経験だったと思う。
 また、地域の人の親切な対応や、暖かい雰囲気もよかった。



一覧へ戻る