<調査班> 副田和彦 田原啓太郎 通山和史 張宇 しこ名 しこ名については、高瀬で4番目の長寿で、「高瀬の二宮尊徳」と呼ばれる方にきいても、 また、その他の調査に協力してくださった方々にきいても、昔から本当に名前は変わって いないということであった。 また、昔から変わっていないというだけでなく、今の地図に載っている山の呼び方にほ ぼ統一されているとのことだった。 田について聞いたところ、話を聞く限りにおいては、ほとんどは他の所有者に変化はな く、よって高瀬内においては、その田んぼの所有者の名前と、田んぼの名前が一致するの が一般的なようだ。 地図上の特徴く次ページの地図を参照) <神六山> . 川が3方向(玄海、唐津、川棚)に注ぎ込むという、日本でも非常に珍しい川の源泉が ある。 <ハツテ山> 大旱魃の際、雨乞いが行われた山 <ナツギ山> 地元で一番有名な山 <北の坂ため池> . 朝鮮半島の人々を使って作らせたというため池。 <本河内・小河内ため池> 2度の大旱魃の反省に基づいて作られた <県道> 昭和61年に改築が完了。一本道だから道そのものに変化はないが、以前よりも広く なって便利になった。 . <松尾神社> 今も「あらおどり」で非常に有名である。雨乞いに使う太鼓なども奉納されている。昭 和43年に改築。最初にできたのはおよそ800年前。 <万寿観音寺> 黒髪山の大蛇退治のとき、村の松尾弾正の娘、万寿姫が囮になることを志願して、見事 大蛇を退治することができたので祀ったといわれている。 田 昔は地主から土地を借りて耕作を行う小作農が主でした。高瀬では、地主に対して小作 農は、地代として全収穫分の七割を持っていかれてしまいました。しかも、その残りの三 割も、通称「くず米」と呼ばれるものであり、質も味もあまりよくないものだったそうで す。米が不足していたので、高瀬の人々の主食は、麦、芋が主であったそうです。(ひえは 食べなかったそうです) また、米を管理する際には、大きな甕を土に埋めて、その中に入れて保存する方法と、 ぬかやもみで米の周りを囲み、保存する方法との二種類があったそうです。 西川登町の中では、高瀬は土地の質がよいほうであり、米の収穫はまあまあなほうでし た。しかし、西川登町の中で小田志は、佐賀県一の「米落ち」の地区であり、非常に大変 だったとおっしやられていました。今では、一反あたり9〜10俵収穫できるということ ですが、昔は3〜4俵しか取れなかったということです。やはり、この裏には化学肥料の 登場が大きかったようです。昔は、化学肥料がなかったので、山から青々と繁った葉っぱ を切り取ってきて、田の土に埋めて、それを耕して肥料とする方法をとっていたようです。 また、昭和10年代に2度高瀬を獲った大旱魃(そのうち一方は昭和19年)のときに は村人全員が一致団結して、川から水を汲んで回り、水の少ない人の田んぼに注いで回っ たそうです。その際、人々は「ハツテ山」に太鼓などの、神社に奉納されている楽器(あ らおどりで使われているもの)を持って雨乞いに行ったそうです。高瀬の人々は、二度の 大旱魃の教訓を生かして、ため池を作りました。そのため池というのは、「北の坂」、「小河 内」、「本河内」の3つの池です。そのうち、「北の坂」の溜池は朝鮮半島の人を使って山に 発破をかけさせて作らせたそうです。ため池から水を引く際には、高瀬の人々は水利管理 組合の水番をおき、しっかりと水を管理していたので、争いはなく、助け合って生活して いたということです。 牛 私たちが訪れた高瀬で、四番日のご長寿でいらっしゃる福田悟三さん(大正元年生まれ) は、高瀬で唯一の種牛を買っていらっしゃる家でした。種牛が各農家一匹ずついる今では 信じがたい話ですが、昔は雄牛は大変貴重な存在であり、悟三さんは、その雄牛を使って 高瀬中の雌牛に種付けをして回ったそうです。 また受精の際、今は「凍結精液」を使っているが、昔は「液状精液」を使っていたそう です。 ■ 子供たちの昔の生活および交通手段 今の世の中のように、テレビゲームやその他の遊び道具がなかった昔は、「こま」や「ビー だま」、「ぺチヤ」(めんこのこと)が、主な遊びでした。 ’ 夜、子供たちは内職に励みました。高瀬では、「竹細工」と「むしろ織り」が主な内職で あったそうです。 学校は、西登町には二つありました(弓野と小田志)。ちなみに悟三さんは、子供のころ から大変成績が優秀で、先生から、他の生徒の成績を任せられたほどの方で、まさに高瀬 の「二宮尊徳」とも呼ばれる存在だったそうです。 また、風呂は大体4〜5件につきひとつの割合であり、集落のみんなによる当番制によ って、お風呂を沸かして入っていたそうです。 高瀬では、電気がとおったのは大正9年であり、消化ポンプの設置は大正12年、ガス はこれよりだいぶ遅れて昭和41〜42年の間に普及したそうです。電気がとおるまでは、 ランプの掃除が大変だったそうです。 高瀬の交通は、最初は馬車や徒歩でしたが、その後大正8年に自転車も普及し始め、さ らにその後1日に2回バスがとおるようになり、次第に便利になったそうです。 高瀬の中央をとおっている一本道は県道で、昭和61年に改良が完了した。これによっ て道の幅が広がり、交通の便がよくなった。ちなみに、松尾神社のそばには、そのことに ついて記された石碑が立っている。(写真参照) 高瀬の家々は、昔はワラやカヤで葺かれてい ましたが、徐々に屋根を葺く職人が少なくなっ てきて、昭和42〜43年の間に、ついにほと んどの家が、ワラやカヤをやめて、瓦葺にした そうです。その際は、家を建て替えるというの ではなく、屋根だけを葺き替えたということで す。 あらおどり<荒踊> 1)今から約800年前に、源頼朝の勝利を伝える使者がやってきたことを祝って行わ 荒踊の起源には、二つの説がある。 ( れるようになった。 (2)戦国時代に、島原の城主、有馬仙岩が、武雄の柄崎城を攻め落とし、住吉城に迫っ た。武雄の領主、後藤純明が夜襲によって有馬軍を破り、その戦勝を祝して即興的 に踊ったことを起源とする。 荒踊は毎年九月二十三日に、宮前(字名)の松尾神社において行われる。踊は、モウショウ、カキ(モウショウの周りをかためる人々)、道アヤ(女の人)の三つの役割で構成され、モウショウは、踊のリーダーとして踊を指揮し、また祭りを最後まで見届ける役割を つかさどる。 モウショウの衣装は、頭には紫の鉢巻、服の背中には鳳凰と菊の紋所(15紋)、下り藤 が描かれている。なお、下り藤の「藤」には、武雄の領主、後藤氏の「藤」がかけられて いる。衣装の前垂れには「波に鯉」が描かれており、それは源頼朝の松尾神社への使い人 を意味している。 あらおどりは、昭和36年4月28日に嬉野において天覧出演を果たし、その後文部省 の調査が進み、昭和46年4月に無形文化財の指定を受けた。なお、話をうかがった福田 悟三さんは、あらおどりの保存会長である。そして同年6月には大阪万博に出演している。 *松尾神社 松尾神社には酒の神が祭られている。この神は京都にある、松尾大社からの分霊を祀った ものであるとされている。また、この地の名前である「高瀬」は、京都の高瀬川に由来す るということである。(写真参照) 一日の行取およぴ反省 8:00 集合 8:30 西鉄バスセンター到着 移動および昼食 11:30 高瀬到着 11:45 土地柄の調査開始 ● 高瀬全域を歩く ● およぴ打合せ 13:00 先において目をつけておいた農家や田んぼ周辺で、農業に従事 している人々から話を聞く 神社やその他関連する石碑を紹介してもらい、実際に歩いてい き、見て、触れて、写真を撮る 18:30 調査終了 移動 20:30 天神到着 反省 今回はバスで行くつもりであったが、急遽自分たちで行かざるを得なくなってしまった というアクシデントにもかかわらず、高瀬で一番の物知りであるという方やその他の人々 の温かい協力のおかげで大変貴重なお話が沢山聞けてよかった。 われわれも、調査を通じて昔の人たちの苦労や、苦労に負けないでいきぬく姿、よき伝 統、昔からの知恵などを本当にじかに感じることができた。 しかし、この調査の目的であるはずの「しこ名」については、この高瀬にはほとんど存 在しないということを聞いて、少し戸惑ってしまった。 何はともあれ、本当によい体験ができてよかった。機会があれば実際に荒締りを見に行 こうと思う。