庭木

 江村智佐登
 辛島誠子
 国房恵巳子
 国安文子
 小佐井有紀

庭木  しこ名一覧
     金山谷・サヤノモト 道祖元・鬼面の峠・
     勝負谷・モノハラ 物原・イマキタニ 猪牧谷・
     新山・テキバー・マエハラ 前原・
     寺山・ミヤヤマ 宮山・ガンピュウ 岩(願)風・
     スケベダニ 助平谷・イケマツ 生松

     田畑
      庭木分のうちに・・・ガンピュウ
      板屋のうちに・・・・前原

     谷・その他
      カロチトのうちに・・勝負谷、猪牧谷
      鋳物師のうちに・・・金山谷、生松
      土井切原のうちに・・テキバー

     用水・用水源
      庭木ダム 六角川水系庭木川


聞き取りした方々  松尾鉱吉さん(公民館長)昭和14年生
           江口武道さん 昭和18年生
            木寺隋夫さん 昭和6年生
           樋口芳郎さん 大正9年生
            中原利正さん 昭和9年生
            松尾忠さん  昭和18年生

聞き取り調査のある場面@  (☆1,2,3:調査員  ★:おじさんたち)
 調査員2名は、おじさんたちから聞き取りをしながら、
 地図に小字、しこ名を書いていた。
 そんなとき・・・・
★:「そういや、”スケベダニ”ってのがあるねぇ。」
☆1:「ええつつつ!”スケベダニ”ですか?(喜ぶ)
☆2:「スケベって、スケベって、・・・・スケベ??!」
★:「(笑)そのスケベやなくて、助平さんからきた”助平谷”」
 ☆:「ああ、そのすけべですかあ・・」

場面(2)
 車3台にわかれて、色々な所を見に連れていって調査員5名.
 1号車にて・・・
★:「あそこに’’道祖神”ってのがあるぞ。
    見に行くかい?!(−嬉しそうに)」
☆2:「はいっ、行ってきま−す!」
 調査員たちは道祖神が何なのか知らないが、とりあえず
 写真を撮りに行ってみた。はじめに説明の板を読まずに、
 写真を撮った。次に、道祖神を撮りに行ったが、わけの
 わからん形をしている。とりあえずカメラをパシャツ
 満足しながら車に戻る途中で・・・
☆3:「あれって、アレやろ?」
☆2:「はっ?アレって何?」
☆3:「そこに書いてあるやん。」
      省略
 ★:「(ニヤニヤしながら)どうやったね?見たかね?」
 ☆:「ハハハハ・・・・」

村の歴史
 水田があまりとれなかったため、明治後期から昭和中期まで養蚕が行われて
いた。また竹細工も行われた。しかし、戦争が始まり終戦まで食糧難がつづき、
桑畑をやめて、いもやかんしょを作った。昭和24,5年頃まで、ほとんどが
いもやかんしょをつくる畑であったという。
 昭和30年から40年頃には、みかんがつくられるようになった。しかし、
みかんは他の県でも多くつくられ、生産過剰になっていた。また、みかんの適
地の条件には、温度差があるためあまり合わず、より向いている茶に切り換え
られた。今、庭木では、茶業が一番さかんである。また、多くの人がこ種兼業
で、長崎県の波佐見や有田に勤めている。

村の水利
 昭和12年の大旱魃のとき、お宮に集まり雨乞いの祈願をした。そのとき、
井戸水はかれ、川にも水がなかった。川原を掘って水を得ていたという。その
水は飲料水で精一杯で、田には水がいかなかった。1994年の大旱魃のとき
には、ダムがあり、むしろ庭木のあたりでは豊作であったという。10年前ま
で、武雄では水不足があったが、ダムもでき、今はもう不足するということは
ない。

村の耕地
 昭和初期から開墾がはじまった。昭和3,10,14年と開墾を続けていっ
た。目的は食糧増産であった。肥料は有機肥料で、堆肥などを使用していた。
今は、有機肥料と化学肥料をうまく組み合わせて使っている。

村の発達
 電気は大正15年頃に来た。プロパンガスは昭和34,5年頃に来た。

村の生活に必要な土地
 村の多くの人が山を所有していた。ガスがくる前は、薪を使っていた。薪は
各自がもっている山から持ってきていた。

米の保存
 米は農協に出す前までは、余った米は米商人に売っていた。昔は、個人の間
で小作契約が行われていて、とれた米の半分を地主に淡していたという。今は、
行政を通じて小作契約が行われていて、例えば1aあたり2万5千円というよ
うに、農業委員会によって決められているという。米は終戦後まで、かめに入
れて保存していた。米俵は虫がつくため使っていなかった。ネズミ対策では、
しきりを設けた部屋の四方に、杉の葉をちらしていた。種籾は袋に入れて保存
していた。昔の食事における米と麦の割合は1対9であった。家族で食べる米
は、保有米、サクミヤー(作米)と呼んでいる。

村の動物
 田を耕すために牛を飼っていた。馬はいなかった。

村の道
 佐賀県西川登と長崎県波佐見をつなぐ道を、行商の人が通ってきていた。人
一人が通れる細い山道だった。西川登では弓野のあたりが中心地で、そこから
魚などを自転車で売りにきていた。

まつり
 田植えをしたとき、田祈祷をして豊作を祈った。集落のまつりは12月15
日で、お宮に朝早くから人々が集まっていた。まつりは、今も青年団などによ
って継承されている。

昔の子ども
 昔は遊び道具なども自分たちで作っていた。地面に立てた木やくぎを倒す遊
びなどをしていた。ビー玉を使って遊ぶこともあった。終戦の頃、野球がはや
り始めて、布でグロープなどをつくってもらい遊んでいた。

村のこれから
 後継者育成が大きな目標である。そのために茶業の規模の拡大を考えている。

<庭木の歴史>
庭木の産業の歴史
 庭木ではかつては焼物、竹細工、養蚕が盛んだった。
 焼物は含珠焼(がんじゆやき)と呼ばれる磁器で、特徴は磁器中に花鳥などの模様が透
明な硝子質で象眼されていることである。この磁器は西川登町小田志の樋口治実氏により
研鑽を積まれていたが、財政的理由により生産は中止となってしまった。奇遇なことに、
樋口治実氏は今回話を聞かせて下さった樋口さんのご先祖だということで、身近に感じら
れ、感慨深かった。
 竹細工は170年程前からあったと言われている。日清戦争や日露戦争時には石灰笊(
ざる)や米揚笊、肴(さかな)笊などの軍用品の受注が多かった。太平洋戦争後の職が
ない時期には、竹細工職人は150戸500人にのぼったが、昭和30年代になると石油製
品に圧され、姿を消していき、現在はほとんど残っていない。
 養蚕は明治後期から昭和中期まで行われた。しかし、太平洋戦争激化につれて人造繊維
の出現と食糧増産により桑畑が食糧畑となってしまい、絶えてしまった。
庭木の農業の歴史
 山間部のため、一家に平均35.2aの狭い水田しかなく、生活が困難だった。そこで、昭
和初期にヒラガクラの開墾を行った。その開墾は5回にわたり、村民総出で唐鍬を使って
手でなされ、、全部で約8baの耕地ができた。そののち、その功績を後世に伝えるため、
昭和55年に記念碑が設立された(写真参照)。
 そのヒラガクラでは、昭和30年代から40年代はみかんが栽培されたが、他県との生産
競争が激しかったため、茶の栽培に切り替えられ、今では20haほどしか残っていない。
庭木の茶の歴史
 この辺りの茶は1191年背振山に、宋より栄西禅師が伝えたのが始まりだといわれている。
その後、明恵上人に伝授して、宇治・駿河に広められたとも言われている。1500年ごろに
は現在の武雄市や嬉野町で段々畑の端を利用して栽培されていた。
現在の茶栽培
 昭和24・25年ごろは個人の家にも唐釜という茶葉を炒るための釜があったそうである。
庭木では昭和55年に大型製茶工場が設立された。そして平成11年にはFA(完全自動処
理機)を総工費1億8400万円かけて導入した。この機械は生葉を一度に180kgも処理
できるそうである。
 庭木の茶は婿野茶として出荷され、平成11年に開かれた全国お茶祭りで第一位、特別
賞を獲得するほどの高品質を誇っているが、現在、茶の生産に関わっているのは9割が
高齢者であり、後継者問題が深刻である。
庭木の神社・堂祠
 庭木神社:昭和12年改築にて神殿、社殿あり。昭和51年は800年となる。
     由来 杵島郡の庭木村にあり庭木隼人佐藤原宗顕という者出雲より来り、後
       藤氏に属して当村を領す。これを以って杵築太神を斎い祀て産土神と
       為す。宗顕が遠孫今に至るまでこれが酒掃を掌る。
寺の趾:由来 鎌倉時代において僧徒の入唐するもの多く中に栄西禅師の高弟にして聖
      一国師は帰国後初めて武雄広福寺を開きて鎮西総本山とするやその末寺
 一     附近に多くこの庭木に一箇寺設けられたるが星霜七百年遂に荒れて今は
      畑と化してただ字名に寺屋敷として残り山林には法筐院塔雑然として散
      乱し阿春坊塚は樹木生い茂り、中に塚あり薬師堂も樹木鬱蒼たるのみ。
                             (伝説及び実蹟による)
大師堂:ブロック造り
    不動明王…明治二十五年作
    弘法大師…石像安置
    大日如来・‥石像安置
    弘法大師(石像)天保十三年
    大日如来(石像)昭和三年
    不動明王(石像)昭和四年
    弥勒菩薩(石像)昭和三年
   拝殿…木造なりしも昭和五十年鉄骨にて改築
大師:石像・‥明治三年 真手野川内の山中
   稲荷大明神の石祠…明治三年
八人塚:由来 後奈良天皇の享禄三年正月十六日有馬晴純の後藤純明を住吉城に攻めて
      利あらず後藤の将犬走勘左ェ門の為に潰走し、その卒八人庭木新山に隠
      れたりしが発見せられ同地勝負が谷にて決戦して死し、それを祀れるも
      の八箇ありしを畑に開墾せられる時に潰され、今はその大なる一所を残
       せるのみ。(写真参照)
天満宮:神殿…石造 明治二十三年、中に祭神・菅原道真の像あり、拝殿あり
観音堂:神殿・拝殿を未ねて観音像あり 明治三十三年
    皇太神宮碑・天照皇太神宮…天文四年
彦山大権現:石祠の中に彦山大権現の銘・‥慶応三年
八天宮:石祠あり 古いの享和三年
         新しいの明治三十一年
大師堂:社殿ありその中に弘法大師像(明治二十三年)大日如来石像
双ッ郷堂:塚あり石塔・墓石等の一部を積んである。
     観音像その他あり 社殿
左京像:塚は川の附近の田中にあり岩二、三個を残せるのみ。
   由来 時代不明 左京佐という浪士嬉野に住せしが釣を好み偶々庭木に魚多き
      を聞き来り釣せしが敵攻め来りてついに討たれけるがその死する時今後
       この川に誤り落つることあるも必ず溺死を免れしめんといいしと伝えら
       れ爾来この川に陥るもの多きも川は岩石のみなれど死せるものなし。
                                     (伝説)
薬師像:雑木林の中に石祠その他あり 銘不明
阿春坊:雑木林の中石塔の一部、基地ではと思われる。俗名「オシンポロサン」(写真
    参照)
山ノ神:石祠…山ノ神の銘あり 昭和六年 (写真参照)
道祖神:庭木板屋の旧波佐見・嬉野道の所にあり、その附近を「道祖元(サヤノモト)」
    という。御神体などが失われていたが、平成五年に新しく作られた。
由来 今より約三百五十年前に庭木、板屋の地に高麗焼が起り、このため長崎街
  道を中心に交通交易が盛んになった。そこで人々が旅の安全無事を祈り、
   この道祖神を祭った。ここに男根が御神体として祭られているのは後生の
   人々が旅の安全、五穀豊儀、子孫の繁栄を天狗様の鼻にお願いして、男根
   と女陰を供えた事に由来する。(写真参照)



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