西川登町矢筈地区レポート

5000分の1の地図の見方1、小字の読み方

杵島山きしまやま
川良田こうらだ
岳だけ
長運如ながはす
無ノ元かぶのもと
笹ノ元ささのもと
村内むらうち
原石たついし
蕨原わらぴはら
野田のだ
丸葉山ま一ぼやま

2、田畑のしこ名の読み方小字:川良田のうち小字:笹ノ元のうち

小字:原石のうち小字:原石と野田のうち

コウラダ イワノウェ イワノシダ イモリ どウレン ウークェ ミヤノマエ ミヤノウシロ

3、小路矢筈地区では、村の中で5件から11件の家々の部落をそれぞれ班と呼んでいる。全部で6班あるらしい。@尾崎A西郷にしごうB谷口C戸太郎とだろうD道向どうこうE神林がみぴゃし
4、神社上記の班のおのおのに、1つずつに神さまがまつってあるらしい。それぞれの班で毎年それらの神々の祭りがある。(祭りについては、後で詳しく述べる。)@小路:尾崎のうち観音様A小路:西郷のうち権源様肋剛B小路:谷口のうち地蔵さまC小路:戸太郎のうちお釈迦様D小路:道向のうちお太師様E小路:神林のうち天神様

その他

1、その他小路:神林にある天神様の近くにもっこくの木という大きな木があるらしい

本山さんからの聞き取り調査
4、神社上記の班のおのおのに、1つずつに神さまがまつってあるらしい。それぞれの班で毎年それらの神々の祭りがある。(祭りについては、後で詳しく述べる。)@小路:尾崎のうち観音様A小路:西郷のうち権源様肋剛B小路:谷口のうち地蔵さまC小路:戸太郎のうちお釈迦様D小路:道向のうちお太師様E小路:神林のうち天神様

その他

1、その他小路:神林にある天神様の近くにもっこくの木という大きな木があるらしい

本山さんからの聞き取り調査

私達が本山さん宅に着くと、本山さんの奥さんが歓迎してくれた。部屋に通されると本山さんと本山さんのお兄さんが、あたたかくむかえてくれた。早速、調査を開始しようとしたが、「まあ、お茶でものみんしゃい。」と、おっしゃるのでいただいた。

始めに小字の読み方について尋ねた。4人で地図を囲んで進めていった。「ここは、きしまやま。ここは、こうらだ。・・」と言いながら、丁寧に教えていただいた。蕪と駕を間違えていたことにきずいた。(蕪ノ元のところ)また、「杵島山は、山内(町)にもかかっとるもんね。」とも教えていただいた。

一の他小字:岳のうち 泣きえぴす神さん 小字:村内のうちはってん様

5、川のしこ名 谷合川たにごうがわ 流川ながれがわ 谷川たいのかわ
続いて、しこ名について尋ねた。すると、上記のような8個のしこ名を教えていただいた。川良田一帯の田んぼは、すべてコウラダと言うらしく、またイワノウエ、イワノシタというしこ名の由来は、昔そのあたりに大きな岩があったからだそうだ。ミヤノマエ、ミヤノウシロというしこ名がついている場所には、今もお宮がある。

続いて、村の水利や水利慣行について尋ねたところ、水は各家に1つずつ井戸を掘って取り入れた。また、流川の上流から何件かずつ共同で、竹を割ったもので配管して、取り入れたりもしたそうだ。竹は当番制で掃除していたらしい。他の村と共有とかではなかったらしい。「大旱魃は、どうやってのり切ったのですか。」と尋ねたところ、「この辺は井戸だけんね、井戸はいつも水のあるけん、あんまりひどか早魅とかはなかね。」とのことだった。ただ、1度だけ(昭和14年)とてもひどいものがあり、そのときは、昼夜間わず1週間ほど雨ごいをしたそうである。「あ一あれはひどかった。」

次に、昔の暮らしについて。本山さんにまず、昔の学校路について聞いたところ、昔の学校路は今では、ダムの底に沈んでしまったらしい。本山さんは、学生のころその学校路を5キロも草履で毎日通学していたらしい。私達がそのことに大変驚いたところ、昔では当たり前のことだったとおっしゃった。感服。塩や魚はどこからはいってきたのかについては、売りに来る人がいたとのことだった。農業以外の現金収入については、これと言って特になく、ここだけの語ヤミ米で財をなしたこともあったとかないとか、、、。ところで、村に電気がやってきたのは大正13年だそうでプロパンガスは昭和に入ってからとのこと。今の若者のように,TVゲームなどはもちろんない。昔は何をして遊んでいたのかと尋ねたところ、凧上げ、むくろうち、ビー玉、こま、戦争ごっこをあげてくださった。また、昔の若者については、夜は何の仕事をしていたかと尋ねたところ、男は主に,縄をなったり、わらをたたいたりしていたらしい。女は主に針仕事、草履作りをしていたらしい。そして、当時の若者達は夕ご飯のあと青年クラブという集会所に集ったそうだ。当時の村の若者達の溜まり場だったそうだ。上下関係は厳しかったらしい。この施設は今の公民館の近くにあったらしい。結婚は見合いが中心で村外婚などはあまりなかった。他の村とは仲が良かった訳ではなく、よその部落の者が来ると石を投げつけて追い払ったらしい。また、その中でも本山兄さんは先頭に立って活躍したらしい。(本山兄さんは照れ笑い。)
続いて昔の暮らし、特に農業関係について記したいと思う。キイノ(焼畑)は尋ねたところなかったということだった。草切り場こついては、特にそういったものはなく、個人の田んぼの横の土手の草を刈って牛の餌や、肥料にしていたらしい。入り会い山については・生産組合が2ケ所ほど所有しているらしい。また、〜〜合(〜〜ごう:名前不詳)というところも入り会い山を持っているらしい。次に、化学肥料がはいるまえとあとを比較していただいた・簡潔にまとめると、化学肥料がはいるまえでは、米の収穫高は、良田で反当360キログラム、恩田で180キログラム。肥料がはいってからは、良田・恩田関係無く大体480キログラムだそうだ。ちなみに、化学肥料がはいる前の肥料は、牛の糞や草がメジャーだったそうだ。そのようにして収穫された米はどのどのように保存されていたのだろうか。米は、農協に売るものと・飯米に分けられた。飯米は、保有米、おめしとよぱれていたらしい。それらの米の保存にとって大敵はねずみだ。そこで、ねずみ対策について聞いたところ・米をカンカンにいれていたらしい。そして、ねずみが杉の葉のチクチクを嫌うと考えられていたことから杉の葉を近くに置いておいたりもしたらしい。また、・ねっぽく・と呼んでいるむしろも使われて1・たらしい。種籾(次年のための)の保存は、カンカンに入れたり、カマスに入れたりしていたらしい。昔の農家にとって・今のトラクターの代わりとなる農具であったのが牛や馬であろう・この地域では・大体何処の家でも農耕用や山から切り出した木材などを運ぶためなどに・雄の牛を1頭保有していたらしい。牛を売りに来る人は、博労(ばくりゆう)とよばれ・どのような人が多かったかと尋ねたところ、「皆うそつきばっかり。やっぱり牛の売り買いとか交換はカケやけんね、いいように嘘ばっかり言いよるもんね」と力をこめて笑顔で教えてくださいました。また、馬捨て場は谷のほうにあったそうだ。

次に矢筈の祭りについて・各班ごとに神社があって、それの祭りがあるらしい。班の人が参加する・その他に・矢筈神社祭りというのがあり、それは全員参加である。毎年12月11日に行われるらしい。7月14日には酒代払い(さかじやばらい)があっていた。また4月には花見があり、昔は1週間ほど行われたらしいが、今は1日だけとのこと・花見は・東中老・東青年、西中老、西青年にわかれて行うそうだ。

最後に矢筈地区のこれからについて伺ったところ、昭和55年6月に水道こなり・今はダムから水を取り入れていること。(以前は個人の


貯水池から引っ張ってきて、ろうとでこして使っていたらしい。)また、昨年4月から、トイレが汲み取り式から水洗に変わったこと。を挙げていただいた。

以上が本山さんから教えていただいたことである。調査を終えて、まだ時間があったので本山さん運といろんな話をした。(学校や一人暮しや福岡など)とてもいい雰囲気で本当に楽しかった。昼ご飯には、のり弁と手作りのおでんをご馳走になった。帰りにもたくさんいただいた。

歩き、み、ふれる歴史学を受講して、初めてしこ名や小路について知った。始めはなんとなくだったが、それらの調査に行ってだんだん自分達のなかで理解できてきたように思う。しこ名などは使われなくなってきているので、消滅してしまうまえに記しておくことは意義のあることと考える。私達は矢筈地区担当だったが、自分がそこに住んでいるような親近感を覚えた。また、高校までの歴史に対するイメージとは違った歴史学の講義で興味を持てた。

さいごに
このレポートが完成できたのは、本山さんの御協力のおかげです。本当にありがとうございました。何かお気づきの点がありましたらお知らせいただければ幸いです。体にお気をつけて頑張ってください。

矢筈の地名2000.1/9                調査者:服部

ウージン コジン ジン トロク  ウージャラ  カミノタンナカ(カミダ)
ヒャクマイ ハタケダ ハシカン シンツツミ ヤエモンダニ マツヤマ ニシゴウ 
ヒラヤマ オザキ ヤマシタ タニゴウ タニグチ シモバー    ムコウ オシャカサン
トダロウ(戸太郎) ササノモト(字笹ノ元) トウゲ クレイシ ドウコウ(道向) 
ドウレン(道蓮) ウークエ ニイドンタニ ゴタンバタケ(波佐見町) 
ゲンシロウダニ ミョウトイワ アキヤマ(ヤキヤマ) ムタノタ ゴホンマツ 
ヤマクチ タカノバタケミョウトツツミ マーバヤマ(字丸葉山)




    


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