服部英雄のホームページ

目次   日宋貿易の実態   ----「諸国」来着の異客たちと、チャイナタウン「唐房」--------                                服部英雄   はじめに----唐房地名の分布---- 1 存問(臨検)は現地で行われるのか、博多(大宰府)で行われるのか  一 宋人牒・警固所解・国解・大宰府解  二 天慶八年肥前国高来郡肥最埼警固所「解」-----唐人の要請による博多廻漕 2 宋船来着への対応  一 大宰府存問と朝廷議定  二 公憑と出国  三 社寺貿易・荘園貿易は「密貿易」なのか 3 筥崎宮と大山寺----社寺貿易の代表事例----  一 筥崎宮   A 筥崎宮の地理環境・政治的位置   B 筥崎宮と大宰府−その一体性ならびに乖離性   C 新安沖沈没船と筥崎   D 筥崎社領の分布  二 大山寺  三 香椎宮・志賀海宮ほか 4 肥前国神崎庄の綱首たち  一 有明海の持つ地理的・政治的な意味−−肥前国神崎庄綱首の前提   A 神籠石の配置と高来郡警固所   B 蒙古襲来時の有明海側の防備  二 肥前国神崎庄と日宋貿易  三 建保六年の綱首殺害事件−−肥前国神崎庄船頭としての綱首(張)秀安・張光安 まとめ 神崎庄・博多・箱崎   はじめに ----唐房地名の分布----  唐房という地名がある。チャイナタウン・中国人居留地を意味する中世地名である。筆 者は近年、唐房という地名に関心を持っている。はじめに最近執筆した、唐房を紹介する 短文を引用し、導入としたい。 =====================================− ーーーーー _とした字は上が龍、下が共、きょう ーーーーー     九州の海岸部にトウボウという地名がある。福岡県では、宗像郡津屋崎町、福岡市西区 姪浜、下山門など、佐賀県では唐津市、長崎県には松浦市大崎、口之津町、長崎市矢上に ある。鹿児島県西・南海岸には川内市五代町、加世田市別府ほかがある。いずれも海の近 くにしかない。唐房(唐坊、当方などと書く)はチャイナタウンに由来する地名だ。津屋 崎小学校には、発掘成果に基づく唐坊跡展示館がある。  昨年、福岡市立博物館で開催されたチャイナタウン展に強い印象を受けた。各時代に博 多、長崎、琉球、横浜等で中国人街が建設された。博多湾一帯には平安時代に「唐房」が あった。  中国浙江省の寧波(ニンポウ、慶元)は大陸東端の港で、日本への玄関だった。ここに 大宰府や博多津にいた中国人が郷里の寺院に道路建設費を寄付した記念碑がある。乾道三 年(一一六七)とあり、日本年号では仁安二年に該当し、平清盛の全盛期であった。現在 も華僑は郷里・大陸の一族にせっせと利益を送金するが、当時も同じか。  「唐房」という言葉は日本の文献にみえている。禅宗は中国仏教である。それを日本に 伝えた栄西は、二度中国に渡っている。最近、栄西の入唐縁起が榎本渉氏によって再解読 され、学界に紹介された(*2004年中世都市研究会報告)。それによれば栄西はおなじ 仁安二年、鎮西に行き、宇佐や阿蘇山で修行、よく三年二月に博多の「唐房」に行き、四 月に中国(宋)に向けて出発した。二ヶ月間に唐房宋人から、徹底的な語学研修を受けた だろう。『興禅護国論』にみえる両朝通事、日中の通訳である李徳昭と交際した記事に対応 する。寧波に巨額の寄進した人々も、当時、そこ博多津唐房にいたはずである。  博多にならび箱崎にも唐房(大唐街)があった。明の時代の日本ガイドブック(『武備志』) に「箱崎は、博多津のひさしの先で、そこに大唐街がある」とある。当時石堂川(御笠川) はいまの位置にはなく(戦国時代に掘削された)、博多も箱崎も地続きだった。日宋貿易と いえば博多を考えるが、箱崎の役割も大きい。大韓民国全羅南道、新安沖の海から沈没船 が引き上げられた。中国大陸を出た船が嵐で朝鮮半島にまで流され沈没した。荷札には「筥 崎」、「釣寂庵」、「至治参年」(一三二三)、「東福寺」などとあった。博多の禅宗寺院と並び、 箱崎が重要な役割をはたしている。  建保六年(一二一八)前後の箱崎宮には「宋人御皆免田」が二十六町設定されており、 ふつうの年貢は免除されたが、代わりに高価な大唐絹を納めた。箱崎に田は少ない。各地 の田を宋人にあてがい、国産絹五倍の値段の大唐絹を納めさせた。  瓦軒先の模様は日本なら三つ巴とか家紋だが、中国人は花(おそらく牡丹)の模様を好 んだ。花模様の瓦(花文瓦)は中国にしかみられないが、それが博多およびこの箱崎から 出土する。宋人が箱崎に住んでいたことの証左である。  博多湾外交に力があったのは比叡山延暦寺で、その出先が大宰府後方、大山寺(宝満山 麓)、そして筥崎宮寺で、このふたつの天台宗寺院は兄弟寺院だった(当時は神仏混淆で箱 崎にも寺があった)。唐房の名が見える最初の史料・永久四年(一一一六)の経巻奥書に、 「博多津唐房の大山船_三郎船頭房」とある。三郎という名は日本にも中国にもある。_と いう字は日本人の名前には使われない。かれは宋人で、チャイナタウン唐房に住み、大山 寺の管理下にあった。また経巻を伝えた西教寺は比叡山のふもとの坂本にあって、延暦寺 の一部といえる。 博多湾岸で活動を開始した栄西に対し、猛烈な妨害をした人物が箱崎の良弁や比叡山勢力 であった(『元亨釈書』)。朝廷は栄西の禅宗禁止の宣旨を出し、抵抗した栄西は『興禅護国 論』を書いた。背景に貿易をめぐる利権争いもあった。中国の生糸を日本に運べば一〇〇 倍の値で売れた。箱崎大夫則重の祖父貞重が博多にいた宋人金貸しから大金を借りた話が、 『今昔物語』に見える。大山寺船頭、宋人の張光安が箱崎寺僧(別当・留守)に殺される という事件もあった。利権をめぐる内部抗争で、まるでマフィアの世界である。 箱崎宮は朝廷直轄の神社だった。貿易拠点だったからである。刀伊入寇や文永の役ではま っさきに攻撃目標となった。いっぽう博多は平清盛ら新興貴族勢力の拠点であった。いわ ば箱崎が国営港湾なら博多津は民営港湾で、民営の方が栄えた(*本稿・後述参照)。 鎌倉時代になって博多湾周辺に禅宗寺院がつぎつぎに開かれた。禅宗は鎌倉幕府と結びつ いて、旧勢力のもとから貿易の利権を奪い取ろうとしていった(一例・怡土庄今津・勝福 寺開山は執権北条時頼)。 博多湾の良港、姪浜には、「当方」(唐房)町があるが、近くには渡宋僧の南浦紹明が開い た禅宗寺院興徳寺(檀越は鎮西探題北条時定)がある。さらに今は内陸化しているが、姪 浜と下山門の境付近に「今東方」(下山門)・「稲当方」(姪浜)という小字が存在した。現 地はビル・住宅ばかりだが、調べてみたら、ここに隣接して小字「舟倉」「古川」があるこ ともわかった。舟倉地名がわかったときは、自分ながら小躍りするほどうれしかった。一 帯を発掘調査した福岡市の山崎純男氏は「どうしてこんなところからたくさんの越州窯青 磁(中国産)がでるのか不思議に思った」といっていた。旧海岸線も確認された。現在も 残る今津干潟のような砂丘後背の低湿地帯が拡がっていた。今東方はまちがいなく今唐房、 すなわちニューチャイナタウンの存在を示す。各地の唐房は相互に本店・支店の関係にあ ったが、同時に博多湾内に新旧の唐房があったことは、利権をめぐる新旧の対立を暗示す る。(平成一六年一〇月二二日毎日新聞西部本社版夕刊、一部加筆) =====================================−  唐房は地名であるから、史料としては絶対年代を欠く。同時存在なのか、廃絶・復興が あったのかなどもわからない。ただその地域は海岸部に限定されるし、とりわけ九州西海 岸のみに分布している。こうした特徴はトウボウ地名が中世におけるチャイナタウンに因 んでいることをまちがいなく示し、その広範囲な存在をも語る。トウボウ地名はこれまで の中世における日中関係・交流のあり方を見直す重要な視点につながる。筆者はこの短文 を執筆するまでの過程で、「旦過と唐房」(『港湾都市と対外交易』、新人物往来社・200 4)、「旦過・犬の馬場・唐房」(『中世景観の復原と民衆像』、花書院・2004)を公表し たし、その後もChinese Merchants and Chinese Settlements in Meadieval Japan---- Starting with Place name Toubou and Imatoubou------“Interaction and Transformations”Kyushu Univarsityを報告した。  これらを通じて、唐房地名の所在地(姪浜;唐房、今トウボウ)や文献上知りうる宋人 の居留地(鳥飼・箱崎・博多)が、博多湾の場合にはいずれも砂丘後背湿地(ラグーン) にあって、砂丘低地を突破する河川(室見川・十郎川、樋井川、那珂川、多々良川)の河 口部分にあったという地理的な環境の特質も指摘した。宋人の居留が想定できる今津でも 同様、瑞梅寺川河口の今津干潟があった。そして鎌倉期の禅宗寺院もこうした地点に配置 されていることに注目した(博多承天寺、今津勝福寺、姪浜興徳寺ほか)。  文献によって想定される宋人居留地の位置と、トウボウ地名の対応関係もある。宗像郡 津屋崎・唐坊地は婚姻関係を通じて宗像社に力を持った宋人グループ(張成、李栄など色 定法師一切経関係者、張氏、王氏など阿弥陀経石碑文関係者ほか多数)の存在と対応する。 『教訓抄』に記された「ハナカタ」の唐房に相違ない。「ハナカタ」については博多とする 説もあるけれど、ハとムは、はね一つの差であるから転写の過程で、ムナカタが誤記され たのであろう。宗像が正しい。宗像社周辺には多くの宋人の存在があった。彼ら彼女らの 直接の居住地であったのか、どうかは別としても、関係する宋人の居留地がここにあった と考えられる。  玄界灘に沿った松浦市や唐津市のトウボウは、平戸にいた宋人蘇船頭(青方文書)のよ うな存在に対応する。『本朝世紀』天慶八年(九四五)七月二十六日条に「大唐呉越船」が 「肥前国松浦郡柏島」に来着したという記事がある(*呉越は五代十国時代の十国の一つ、 江南地方にあった国、九〇七〜九七八年)。松浦郡柏島であるから、唐津湾口の神集島(か しわじま)にちがいない。肥前柏島(神集島)の対岸が、いまの唐津市唐房である。柏島 は頭陀(高岳)親王の『入唐五家伝』でも貞観三年(八六一)九月五日、鴻臚館を出て壱 岐に向かった親王が、いったん斑島に渡ったが白水郎(漁民)が多かったので、「松浦郡之 柏島」に移ったと記述される。親王の船は馬渡島から神集島に少し戻ったらしい。また『小 右記』万寿四年八月三十日条によれば宋人陳文祐が八月十四日に来着したのも、同じく肥 前国所部柏嶋であった。神集島は外洋の離島というよりは、唐津湾口の島で、博多湾口・ 志賀島にも似た立地である。九州本土に近接し、寄港地に選ばれやすかった。唐津湾への 唐船・宋船来着は多く、その対岸、九州本土側に唐房、唐人(宋人)居住地が形成される ことは必然であった。なお松浦市大崎東防は「綱司」の墨書土器を出土した志佐白浜免・ 楼階田(ろうかいだ*ルビ)遺跡とは岬をはさんで隣接する。平戸・松浦・唐津は、博多 までの中継地であったともいえるし、また独自の貿易港であったと考えることもできる。  千々石湾(橘湾)・有明海(島原湾)には長崎矢上あるいは口ノ津のトウボウがあったが、 これらは文献上知りうる肥前国神崎庄(神埼郡・筑後川河口)や杵嶋庄(杵島郡、廻江津 川河口)への宋船来着の航路に重なるといえる。後述する肥前国高来郡警固所の存在は、 たぶんに外国船の有明海への入港を意識したものである。 *地名ではないが対馬には唐房苗字があったようで、対馬藩田代代官所日記に唐坊姓の人 物がしばしば登場する(「佐藤恒右衛門日記」『鳥栖市史資料』)。  地名史料トウボウが示唆してくれるものは多大である。こうした地名の分布は博多唐房 のみならず、各地にチャイナタウン(唐房)が建設されるほどに、日宋貿易が繁栄したこ とを示す。『朝野群載』応徳二年(一〇八五)十月二十九日条に引用された大宰府言上状の 一節に 「抑近代異客来着諸国、交開(関か)成市、填城溢廓」 とある。森克巳著書でも引用され、強調された史料である。まさしく「諸国」に異客の来 着があった。関に交わり市をなし、人々は城(都市)を埋め尽くし、廓からあふれた。に ぎわい栄えている。筑前国一国ではない。大宰管内の「諸国」である。唐房地名の各地で の検出は、文献にみえる「諸国」における宋人の来着と繁栄に対応する。  宗教活動でも、呉越地方の商船の来航があいつぐようになり、摂関家と呉越王、叡山と 中国天台山の交流はなみなみならぬものがあったとされる。事実渡宋した僧侶と日本の貴 族との交流を示す書状が『御堂関白記』などに多く残されている。船の頻繁な行き来がな ければ、手紙を託すことはありえない。  平清盛の時代に日宋貿易が盛行したことはいうまでもなかろうが、鎌倉時代にも幕府派 遣船は建長寺・称名寺・関東大仏造営料唐船など多数に及んだ。東国所轄の幕府「唐船」 だけで少なくとも五艘はあった。東国の幕府・東国寺院でさえ、このようであったから、 幕府掌握下の大宰府管内から、毎年多数の宋船が発着した。  地名が示唆した視点は史料の記述や、日唐・日宋貿易の盛行という研究史の指摘と大き く重なる。しかしながら、じつは通説からはかなりの距離があるといわざるをえない。定 説はこの時期に日本があたかも鎖国政策をとっていたかのようにみる。貿易が非常に制約 されていたこと、とりわけ交易港湾が博多津に限定されていたことを説き、強調する研究 者が多数派である。あたかも鎖国下における長崎・出島が連想される。はたして博多は出 島だったのか。もしそうなら各地における唐房の繁栄はない。なぜこうした認識差・懸隔 が生じるのか。以下トウボウ地名の意味するところについて、再確認していきたいが、そ の一連の作業のなかで、唐房理解の前提となる日宋・日元貿易つまり日中交流のありかた、 箱崎の役割、神崎庄の役割を含めた「大宰府」貿易の実態についても、大きく再検討しよ う。


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