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名手・粉河の山と水   ー水利秩序はなぜ形成されなかったのかー

『土地と在地の世界を探る-古代から中世へ- 』     <山川出版社> 223-261頁

                    服部英雄

目次 はじめに

一用水相論の過程ー仁治元年から建長二年まで

二建長裁許により設置された中分の木斗の破壊ー水利に関する合意はなぜ成立しなかったのかー

三昭和三〇年代までの水利慣行の復原

四水利秩序の形成ー二つの正義と二つの原理の調和ー

ー昔、水無川と呼ばれる水のない川があり、両岸に村があった。人      々は川の少ない水を使って田を作る。だから二つの村はことごとくに      仲が悪かった。川を境にして水喧嘩ばかり。悪いことに二つの村には      強すぎる応援団がついた。国中の侍を動員して水争いに加勢する。そ      れはもう戦争だった。そんなことが200年から300年続いた。く      たびれ果てて二つの村は、これからは仲良く水を分け合おうというこ      とになった。そして知恵あるものがこういった。いっそうのこと一つ      の村になってはどうか。信じられないことだが、仲が悪く、いがみ合      ってばかりいた二つの村は、こうして一つになった。

はじめに

在地には様々な組織や社会があり、相互に秩序だって共存する。普段は安定している秩 序も時には乱れることもある。いくつもあった在地秩序の一つが水利秩序であり、我々に とって、もっとも可視化しやすい秩序でもある。  律令以来川は山野などとともに公私これを共にする、即ち皆が共有するものという考え 方があった。しかし一方では徹底して私有もされた。本稿では中世における水利秩序に関 わる諸問題を検討し、その特質を明らかにする。限られた用水源の分配をめぐっては、そ れぞれの受益者間で調整が必要であり、調整のルールが確立されている。双方の合意であ る。しかししばしばそれは破綻する。常時の降水量が得られない年、すなわち旱魃の年に はルールの破綻をみることがある。旱魃を経験する都度、ルールは複雑でこみいったもの にはなるが、再び合意が形成され秩序が再生産されていく。 配水の原理  配水は時間あるいは分水施設によって行われるが、その原理(水利権の原 則)には、いくつかのタイプが見られる。 (一)受益水田の面積によるもの。面積の広狭に応じて配水量が決定される。(二)用水 を受益する水田の新旧によるもの。新田は、古田の水量に余裕がある範囲内で、つまり弱 体な水利権しか付与されないことを前提として用水系に加わる。だから古田と新田との間 には水利権の強弱ができる。古田の用水量が総体として不足している間は、この差は強固 に維持される。  以上の二つが根本的な二大原則といえよう。古田と新田の区別が時代の進展につれて稀 薄になり、用水の量にも余裕があれば、(一)によるのが合理的である。(一)、(二) の二つの原理はしばしば競合する。  ほかにも幾分特殊な原則もある。 (三)他領を通過して用水を引く場合には土地提供の代償として、その村に無条件で水利 を提供する。 (四)用水開鑿に功績のあったものの田、またはその子孫たる管理者の水田には優先して 配水されることがあった。近世には庄屋などの有力者の田、中世には佃、御正作などの領 主の水田に優先的に配水された。 (五)漏水しやすい水田、高い位置にあって地形的に他への配水を中断して水位を上げな ければ引水できない水田などには、面積比とは異なる尺度を導入し、特別な細かい配慮を することもある。  (三)から(五)はかなり特殊なものである。 (六)山や丘陵に接した地域では、自らの村に降った水はすべて自村で処理できるという 考え方があった。自然のままであれば他の村に流れる水を、地形的にかなり無理をし人工 水路を掘鑿してでも、自村に引水することもみられた。 自領に降った水は自領のもの  この(六)の事例は河川を徹底して私有するものである。 幾分特異に思われるかもしれないが、筆者が調査した範囲でいえばつぎのような事例があ る。 (1)茨城県真壁郡真壁町(真壁庄故地)の長岡村と下小幡村はともに加波山麓の村であ る。両方の境界を流れる不動沢の水は自然流としては長岡に流れるが、それを両村が半分 づつ引水した。半分が自領に降った水だからである。下小幡はその水を分水嶺を越えて自 村に引いた。 (2)同じく真壁町の桜井と白井では、上流桜井から下流白井に流れる川の水を 、上流の山林を所有する桜井が、境界に「ほっきり」と呼ばれる堰堤と掘割をつくって、 水を分水嶺を越えて自村に引いた。白井には「ほっきり」の漏水のみが流れた。 (3)奈良県桜井市の三輪山、巻向山(穴師山)山麓では、二つの山の間の谷を流れてく る巻向川を利用する。三輪山に入会山を所持する箸中が巻向川の三分一、巻向山に入会山 を所持する六か郷が三分二、と上流の山の面積比に応じた水利権を得ていた。かつては箸 中も巻向山中に山林をもち、その分を足して三分一以上の水利権を得ていたが、その山林 を他郷に売却したために、訴訟に破れて三分一の水利権にとどめられた。箸中は自領の三 輪山山中に空堀を掘り、降雨時の水を溜池に引水した。自領に降り巻向川に流れぬ水を、 自身のものにしようとしたわけである。 (4)広島県庄原市(地田比庄故地)の場合、吉井と市村の両方の境界を流れる谷に設け られた溜池の水は、自然流としては吉井に流れるが、半分の水の権利を有する市村側は、 これを分水嶺を越えた自村の側に引水している。この形態は中世の「山内首籐家文書」に 見える「水越の樋のたわ(峠)」がこの位置に比定されること、市村への用水が「地頭名 」と呼ばれる田を灌漑することなどから中世に遡ることができる(注1)。 以上のような考え方、そして事例は実際にはかなり多くの地域で見られよう。ただしこの 原理(六)が上記(一)、(二)の二大原則にも優先しうる原則なのか、それとも(一) 、(二)の範疇内での原則なのかは定かではない。 水無川水利の概要と本稿の視角  本稿においては研究史上著名な紀伊国水無川の水利問 題をとりあげ、現地調査をふまえつつ、これらの原理のあり方の検討をすすめる。最初に その中世的水利の概要を述べよう。  紀伊国北部を大河紀ノ川は東から西に一直線に流れる。両岸にはいくつもの支流が流れ 込む。そのうち右岸、和泉山脈(葛城山系)からの支流の中に、中世史研究史上著名な流 れが二つ並行して存在する。そのひとつ、〓(かせ)田庄と静川の境界を流れる四十八瀬 川は、〓(かせ)田庄を灌漑する文覚井の存在で名高い。今一つの流れ、すなわち四十八 瀬川のひとつ下流の支流がこの水無川である。その名が語るように水量が乏しい。多くが 地下水(伏流水)になっており、表面を流れないのである。その点は先の四十八瀬川にも 似る。ただし今日では水無川という呼称はなく、名手川とのみ呼ばれている。上流は今日 の和歌山県那賀町と粉河町の両町域を、中流は那賀町域、下流は粉河町域を流れている。  この水無川の水をめぐる争いは鎌倉時代の中期、仁治元年(一二四〇)に始まり、室町 時代、応仁元年(一四六七)にいたってもその激しさは増すばかり、この間の水争いとは 合戦と同義であった。二百年以上も続いた驚くべき大紛争である。また調停には六波羅探 題、鎌倉幕府、そして朝廷が当たったのだが、いずれも根本的な解決にはいたらなかった 。この点でも他に類をみない。我々は高野山に残された多数の古文書のほか『葉黄記』、 『醍醐寺賢俊日記』、『満済准后日記』などの記録によって、この川の水をめぐる激しい 争いの状況を知る。そして同時に中央の貴族にも知れ渡ったこの紛争が、決してありふれ たものではなく特異なものであり、この事例をもって中世のどの村にもこうしたことがあ ったとするわけにはいかないことをも知る。似たようなことはあったかもしれないが、こ れほどまでに極端なことはなかった。その意味では例外である。  本稿ではこの水無川の検討を通じて、先に見た配水の原理のうち、いかなる原理が卓越 しようとしたのか、あるいは卓越しようとしてできなかったのか、それを見ていくことに しよう。その中でなぜこの事例が例外的なものになったのかが分かるかもしれない。 研究史 なお水無川については史料が豊富なこともあり、これを取り上げた研究はすこぶ る多い。すでに半世紀も前に舟越康寿「高野山領名手庄と粉河寺領丹生屋村との紛争につ いて」(『史蹟名勝天然紀念物』一五-一二、一九四〇)、宝月圭吾『中世灌漑史の研究 』(一九四三)に言及されている。古典的な業績である。近年のものとしては、太田順三 「鎌倉期の境相論と絵図ー紀伊国粉河寺領と高野山領の相論の場合」(荘園研究会編『荘 園絵図の基礎的研究』一九七三所収)、小山靖憲「中世村落の展開と用水・堺相論」(『 中世村落と荘園絵図』一九八七所収、初出は『那賀町史』、一九八一)をあげたい。特に 小山氏の研究は現地に密着した優れたものであり、かつ最新の研究でもある。本稿は主と して小山論文に沿いつつも、それを批判的に検討して行く中で作業を進めていくことにな ろう。またこれらの研究によって水論の沿革は明らかになっているので、以下そのあらす じは先行研究に委ねることにして、具体的な用水相論の分析にはいりたい。関連史料はほ とんどが『那賀町史』『粉河町史・史料編』に収められている。本稿では史料の引用は『 那賀町史』により、その文書番号を引くこととする。

一  用水相論の過程ー-仁治元年から建長二年まで

用水問題の発生 まず仁治元年(一二四一)水論が発生した過程と原因についてみてみ よう。はじめにこの年に「井水相論喧嘩」がおこり、ついで翌二年に「〓示相論」すな わち境界相論が起こった。従来の研究は主としてこの後者の方の分析を行ってきた。つま り多くの論者は二年の事件から説きおこしている。元年の用水相論については同時の記録 がなく、翌年以降の史料に登場するのみで、しかもそこでは大部分が後者の〓示相論のみ を詳述し、用水相論についてはごく簡単な記述しかない。つまりそうした事件もあったと いう程度のことしかわからなかった。それが元年の事件が軽視されてきたことの理由であ ろう。しかし記述が少ないということと史実の重みとは別である。一般論だが我々には相 論の一方の当事者である高野山側の史料しか残されていない。もう一方の粉河側の主張は 高野山に残された史料を通じて、そこに引用された部分より知るほかはない。もしかした ら高野山にとって都合が悪く反論しにくいようなことはわずかしか引かれていないかもし れない。そしてもうひとつ、裁判の所管の問題もある。当初こそ同時並行的に訴訟が進め られ、御家人(品川氏)の関与した用水相論は鎌倉幕府が裁く意志があったようだが、粉 河寺領丹生屋村と高野山領名手庄の境界相論の色が濃くなるにつれ、幕府は自らの裁許を 放棄した。西国堺は聖断たるべしという原則に従い朝廷が裁いた。こうした経緯から言っ て朝廷に出されたり朝廷から出された文書には堺相論のことしか書かれていないものも多 いと思われる。  そこでこのような史料の残存状況も考慮しつつ、次のように考えてみよう。すなわち仁 治元年に粉河の側が最初の用水相論を仕掛けた。続く相論も訴えたのは粉河であった。怒 っていたのは粉河の側である。このときの記述が高野山側の史料に少ないのは、そのため ともいえる。史料の記述量とは関係なく、元年の用水相論の方こそ根本問題で、山の帰属 はそれより派生的に生じた問題だ。但し本質としては派生的問題であるとはいえ、中流域 のこともからみ、両庄・村の境界問題という大問題に発展し、本格的な堺相論となった。 以下にそのことを述べてみたい。 旱魃と仁治改元 延応二年=仁治元年は大旱魃の年であった。五月以来鎌倉幕府は祈雨の 祈祷、日曜祭、七瀬払、千度払、水天供をくり返し修している。幕府はまず若宮別当に祈 雨を命じ、効がなかったため次には勝長寿院に、さらに次には永福寺にこれを命じている (『吾妻鏡』)。このような頻繁な祈雨記事は、他の年には見られない。一方朝廷も五竜 祭や神泉苑での請雨経法、さらには興福寺での仁王般若経転読、醍醐寺での孔雀経転読な どの祈雨、祈祷を繰り返した。頂点に立つものばかりではない。おそらくは民間での雨乞 は日常化していたに違いない。  『平戸記』七月条の記述には「炎旱逐日興盛、誠可愁之天災歟」「炎旱如火」といった 記述が続く。ついには「炎旱之際、大和国損亡」となる有り様で、炎旱は「顕徳院」(後 鳥羽上皇)の怨霊の祟りといいだす者もいた。その噂はたちまち広まっただろう。五日前 後には炎旱による改元が議論されている。各地に祈雨の奉幣使が派遣された日の翌七月十 六日、とうとう炎旱のため改元されることになった。仁治年号がそれである(『百練抄』 ほか)。  炎旱による改元はこれ以前にも十例ほどあるが(『古事類苑』歳時部)、直前の炎旱に よる改元は元仁(一二二四)であるから、それ以来の旱魃といえる。もっとも外記の勘文 は延喜、応和、康平、承保、大治(一一二六)の五例のみが炎旱による改元と報告する。 詔書に炎旱の文字が載せられたものの意であろうか。その意味では百二十年ぶりのことに なる。ただ仁治改元では炎旱による改元は「代末之儀」であり「不吉」ということから、 結局は詔書には炎旱の文字をいれず、その名目を天変地震に変更している。いずれにして も改元により人心を改める必要に迫られる事態であった。降雨をみたのは立秋も過ぎた七 月後半になってのこと、今の暦で言えば九月に入った頃で、稲がもっとも水を必要とする 時期には用水は完全に枯渇していた。こんな年だったから全国各地でも激しい水争いが起 きる。損亡した大和に近接する、ここ紀伊・水無川でも「井水相論喧嘩」がおきている。 このときの事件については、述べたようにそのものの記録がなく詳細は不明だが、高野山 の史料によれば源朝治が丹生屋地頭(品川氏)の代官(平長康)と同心して、自領丹生屋 の田に水を引くため、名手庄の往代の井水を打ち破ったものという。最初に粉河が引き起 こした事件であった。 仁治二年の水論 旱魃は連続するのが普通だという。翌仁治二年にも旱魃は続いた。六月 には幕府による江島(えのしま)での祈雨と千度払が行われ、朝廷は神泉苑で祈雨を行っ た。前年までの用水相論はもちろんこの年にも継続され、より激化する。すなわち旱魃の まっさなかの六月二十七日、粉河寺の僧侶数十人が武装し、百姓を引率して名手庄の一の 井、二の井を落とした。井堰を破壊してその分自村側の井堰に引水したのである。このと きの用水堰の構造、とりわけ名手、粉河のいずれの取水口が上流にあったのかは、のちに 相論の論点になっているぐらいだから不明である。このような事実そのものが争われる。 まさに水掛け論。しかし旱魃になればなるほど粉河側の用水が困窮する構造になっていた はずである。おそらく名手の井堰である一の井の直下、ないしは一二の両堰の直下に粉河 の井堰があったのであろう。粉河の主張によれば、当初は粉河の一の井の方が上にあった のに、いつのまにか名手側がその上に堰を移動させたことになる。ちょっとそのままでは 信じがたいが、本当ならばただで済むはずはない。粉河は樋を破り溝を穿(うが)って名 手側への通水が完全に不可能になるまでにしたという。それ以前にもよほどの感情の対立 があったのだろう。翌二十八日、さっそく名手庄側が水を取り戻すべく井口に向かい、井 堰を警護していた粉河側と衝突、双方の狼藉になった。 椎尾山の帰属 しかしこの実力行使の一カ月前に実は次のような訴訟が起きていた。この 年の五月に粉河寺は解状を幕府(六波羅)・朝廷に出し、高野山を訴えている。そこで論 点となったのは(1)名手側の武力行使の非難、(2)名手と粉河の用水取水口の上下の 位置関係、そして(3)名手と粉河の境界、まず水無川そのものの帰属、つぎに(4)椎 尾山の帰属問題であった。ここに境界相論が新たに発生したことを知る。これ以前に名手 側が甲冑を身にまとい、弓矢(弓〓)を手にして椎尾山に入る事件があったのである。小 山氏の指摘のごとく、椎尾は今日では全くの山林であり、決して生産性を期待できる山で はない。なぜ名手、そして粉河は椎尾にこだわったのか。おそらくは述べたように上流域 がいずれの庄に帰属するのかによって、水の帰属も決まったからであろう。先述した(六 )、即ち全国各地にみられる観念に、雨が降った領域の水はその村が利用できる、自村に 降った水は自村が利用できるというものがある。上流の山が自領であれば全部、谷が境界 であれば二分一の水の権利が主張できる。  相論の発生以前まで名手庄、丹生屋とも境界の線そのものには多少の出入りはあるもの の、基本的には水無川が境であると考えていた。しかし上流で西の谷と東の谷に分かれる この川のいずれが境界である本流なのかはそれほど問題にはされることがなかった。この 年以降初めてそのことをめぐる争いになっている。もっとも名手も粉河も古文書の四至記 載によれば水無川は完全に一〇〇%自領の中にあり、したがって完全に自分のものだとい う主張をしたから、山と水を直接結びつけた論理は表面にでることはなかったが、本質的 な問題だとして意識されていたはずである。仮に東の谷と西の谷の水量が同じだとして、 東の谷が境界ならば粉河が四分三、西の谷が境界ならば名手が四分三の水を得ることがで きる。そしてもし二つの谷の中間、即ち椎尾山の尾が境界であれば両者の水は二分一ずつ に自ずからなるはずである。 丹生屋氏の動向-丹生屋氏とは  実はこの椎尾山の帰属については丹生屋村を根拠地と していた源義治、源朝治の動向がさまざまな影響を与えている。例えば去年(仁治元年) におきた井水相論喧嘩も、当時(現在)の傍示#訴訟もその濫觴、根元は源義治の行為に あるとも云われているように。そこで次にこの源氏(丹生屋氏)についても言及しておき たい。  彼ら一族については小山靖憲氏が『尊卑分脈』にも依拠しつつ、詳細な分析を行い、彼 らが大和源氏で大和国宇智郡宇野庄を本貫地とした宇野氏であることを明らかにされた。 しかしなぜか『尊卑分脈』が付した源光治への注記「入野屋八郎」、その孫源基治に付さ れた「入屋蔵人八郎」の注記には関説がなかった。この記述は彼ら宇野氏が入屋(にゅう や、入野屋=にゅうのや、丹生屋)を苗字とし本貫地としたことを示すものである。しか し小山氏の場合は丹生屋氏と宇野氏は「姻戚関係」だったとして、別の一族とみなされて いる。  そこで丹生屋氏が登場する次の史料をみてみたい。神護寺文書の中にある元暦元年(一 一八四)源頼朝が神野真国庄に出した下文である(『平安遺文』八-四一八二)。 頃年天下不静之間、字丹生屋八郎光治、寄事於左右、無指証拠令押妨云々   (中略)、就中件光治、非指奉公勲功者、暗施私威之條、次第所行甚以不 当也、 この丹生屋八郎光治こそ『尊卑分脈』の入野屋八郎源光治その人である。『尊卑分脈』の 注記は正確なものだった。彼は丹生屋を苗字とした丹生屋氏そのもので、丹生屋を根拠地 としつつ、紀ノ川を越えた遥か南の山中、鞆淵川を下った神野真国で活動をしていたので ある。彼の行動範囲は紀ノ川流域一帯にあったとみたい。  係争地椎尾の地主であった人物に僧琳宗がいる。彼は光治の子義治にとっては外祖父に 当たるという。つまり光治は琳宗の女子を妻としていた。大和国宇智郡宇野庄より吉野川 (紀ノ川)を下ればやがて名手、そして粉河つまり丹生屋である。彼が丹生屋を苗字とし たということは、養子に入って僧琳宗の有していた丹生屋村の在地領主の地位を継承して いたことを示している。『尊卑分脈』の宇野系図には光治以前には丹生屋(入屋)を名乗 った人物は見あたらない。以上のことに関連しよう。かれらは御家人ではなかったようだ が、『尊卑分脈』をみる限り蔵人、判官代を称しているから、京都の権門との結びつきが 強くその家人になっていたと考えられる。紀ノ川南岸麻生津・花園庄の史料(嘉元三年、 一三〇号)にも「義治田地支配状」が見える。紀ノ川流域きっての有力な豪族で、その行 動範囲は広かった。 高野山は光治の子である義治とその子朝治について、彼らはともに名手庄の荘官だった が、将軍家の沙汰(裁許であろう)により、あるいは宗家(京都の権門であろう)から罪 を問われたことにより、わずかに他領丹生屋ばかりに居住している、と激しく攻撃する。 このことを受けて『那賀町史』(八二頁)は「(彼らは)追放されて隣庄丹生屋村に移住 していた」と記述した。高野山の論理、名手庄の視点からすればそういうことにもなる。 確かに名手から見れば丹生屋は他領なのだから。しかし対立する一方の高野山の感覚のみ を共有するわけにはいかない。名手庄の荘官職はあくまで兼帯である。彼らの基盤は他の 地域にもあったし、根拠地は当初から丹生屋だった。圧迫を受けて逼塞したわけではない。  ただし丹生屋には新地頭(新補下司)として品川氏が入部していたから、彼との抗争、 軋轢はあったであろう。義治は関東に出頭している間に死亡してしまい、その後地頭代平 長康がその跡を没収しようとしたらしく、その間隙を縫って名手が椎尾を占拠しようとし た。高野の言い分に近いことは確かにあった。しかし名手の行動が成功しなかったことは 述べたとおりである。 相論の経緯 以上をふまえ、これらの事件を次のような流れのなかに読みとりたい。粉河 は水無川の水は自領で使うことができると意識していたが、延応・仁治の旱魃のおり、名 手側が構造上から有利に引水できる事に反感を持ち、実力行使をする。一般的な用水相論 がそうであるように、まず農民・百姓が率先して行動したものであろう。それを後押しす るのが領主である。相論の発生とほぼ同時に実力で椎尾山の権利を名手側から守るととも に、水利権の確保を正当化するため訴訟をも起こした。これらの実力行動と訴訟を指揮す る立場にあったのが粉河寺と、元々の地主である丹生屋氏(源氏)、そして地頭代であっ た。  一方名手は名手で武装行動をとり、鎧を着し弓矢を手にしつつ椎尾山で作麦を刈り取る 行為を繰り返した。また名手を後押しする高野山では、名手庄の四至を示す嘉承宣旨に「 限西水無川」とあったものに「限西水無川西岸」と二文字書き加えるなど、理論武装に加 えて文書の改竄まで行って、訴訟に備えた。この改竄によって西岸までが名手領であって 、水無川はすべて名手が独占できるという論を張るのである。加えて応保元年の証文とい うものも準備したが、これまた「改元以前載新年号」、つまり未来年号を使用しているこ とから後に「偽書歟」と判断されている(『葉黄記』)。  さて一連の訴訟の双方の論点、経過については先行研究に詳しいのでそれにゆずろう。 以下では訴訟の一応の妥結点となるはずだった建長の裁許と、その裁許が守られず、その 結果引き続いて設置された中分の「木斗」について考察する。

二 建長裁許により設置された中分の木斗の破壊 ー水利に関する合意はなぜ成立しなかったのかー

建長裁許の概要 建長二年(一二五〇)裁許についてその概要のみ述べておこう。裁許 では、水無川はどちらにも属さぬ公領となり、椎尾山自体は粉河に帰属した。水無川の東 谷が境界と認められたのである。従来椎尾山は一種の入会山として双方の立入りと、山林 の用益権および「山畑」(麦が作れる程度の焼き畑)の耕作権は認められていたと考えら れる。ただ地主であるとされていたのは丹生屋の琳宗、その子孫の源朝治であった。状況 からしてみても、まずは妥当で客観的な判決と評価できそうだ。  判決そのものでは東の谷が堺と決められた。なぜなら東西いずれの谷が堺なのかという 点が争われたから、それに対する答えがでたのである。ただしこれによって粉河が四分三 の水利権を得たわけではない。用水に関する判決をみてみると「三堰ならびに清水」(注 2)についてはそれ以前には争いはなく「今度諍論之始」、つまり初めて争いになったも のではあるが、どちらの主張からも事実として確定できる「一均之実証」が得られなかっ たとして、水無川は公領の水であるということになった。「山林河沢の実は公私之を共に すべし」という律令以来の言葉を引用しての一般論としての判決であり、「惣領の新儀を 停め、通用の前蹤に従うべし」つまり全部を独り占めするのではなく、お互いに融通して 使いなさい、という教訓的な判決でもあった。実はここに大きな問題が胚胎されていた。  この判断に加え、粉河も名手も一時は椎尾山の尾、つまり稜線が境界と主張していたこ ともあってか(粉河については建長三年の源朝治・基治申状、名手については建長二年宣 旨に引用された高野使の主張による)、水の権利については半々、すなわち平等に中分さ れることになった。しかし境界の決定の仕方に加え、水まで中分されたことは、決して名 手の納得のいくところではなかった。  さて先に仁治以降の相論は、水論が根本で堺相論は派生的なものと判断した。そのこと を裏付けるかのように、建長相論以降、境界問題はきれいさっぱり姿を消し、水論および 刃傷沙汰が主たる対立点となっていく。名手の農民(「堵民」)宗包の言い分を建長の宣 旨は次のように引用する。  ー高野も名手も昔は西の川が堺だなどといってはいなかった。「延久の国判に   は流れは峰に到ると記されている」と粉河がいったのを聞きつけて、峰に到   る川とは西の川のことに相違ないと言い出してこの騒ぎになったー  真相はそんなところだろう。しかし根底にある水論ばかりは、なかなかに片が付かなか った。 中分の「木斗」の設置 宣旨の出た建長二年の次の夏、即ち建長三年の夏は旱魃の年では なかった。むしろ記録上は祈晴の記事もあり(『百練抄』四月二十七日、五月十九日条、 『岡屋関白記』七月二十二日条)、多雨の年だったと考えられる。しかしながら宣旨を不 満とした名手側はさっそくに丹生屋村に乱入し、用水堰を埋めたり、打擲刃傷におよぶな どの狼藉を働いた。旱魃によるやむにやまれぬ実力行使ではなく、完全な意趣返しであっ た。建長裁許以降、どのような方法で用水を中分したのかは未詳であるが、名手は終始こ の裁許が不満だった。だから守護代の呼び出しにも応ぜず、また守護代が現地調査を行っ たときにも「不出対」つまり立ち会おうとはしなかった。  続く建長四年(一二五二)は本格的な旱魃の年であった。水争いは深刻化し春夏の二度 、名手が丹生屋領に乱入した。春の場合、三月五日にまず粉河の後山に乱入、田植え時期 の四月六日には数百人を引率して丹生屋村に乱入して狼藉を働き、小源太という人物に万 死一生の傷を負わせる刃傷となった。さらには在家の追捕を行う。たまらず粉河は狼藉の ことを六波羅に訴え出る。ところが六波羅はまたもや問注記を朝廷に回送した。仁治から 建長まで十年もかかった裁許が終わったばかり。何をまた蒸し返すのか。出された院宣は 「道理にまかせて計沙汰せよ」とそっけなかった。しかし宣旨、院宣が守られなくては困 る。六波羅は裁許の実質的な執行、即ち沙汰付を守護代に命じた。そこで守護代は現地に 臨み分水の木斗を設置した。建長五年七月十八日のことである。ところがこの木斗をも名 手は切り破ってしまった。そこで再度の訴訟になる。六波羅は以前の下知を守れという同 じ下知状を出すほかない。これを受けて守護代と惣官は六年(一二五四)七月六日、去年 と全く同じ中分木斗を設置する。こんなことで名手の不満が本当に収まるのか心配になる ほどだが、力でねじ伏せようというところだろう。しかし三年後の正嘉元年(一二五七) の史料によるとこの中分木斗もさんざんに「切破損」されている。守護代、六波羅の面目 はまるつぶれである。守護代も設置に立ち会うのが関の山。毎日監視するわけにもいかず 、結局は地力に勝る名手側がやりたい放題にしたということか。六波羅からは召文御教書 も出されているが、名手側は「それは私どもではなく高野山の方の問題でしょう」などと いって、出てこない。いっさい出頭を拒否する形での抵抗だった。もし御家人なら、召し 文違背、下知違背で所領召し上げとなる重罪である。しかし御家人ではない名手庄に対し てはおとがめなしだった。裁許に従わせることもできなかった。  めちゃめちゃな判決を出すお上になんか従うものか。名手にしてみればそんなところだ ろう。この間名手側の史料が残らぬのはそのためである。裁許による中分という結果は名 手にとってはよほどに理不尽なものだった。なぜか。おそらくは名手庄側の水田面積が、 粉河側よりもかなり多かったのであろう。先に(六)としてあげた水源の山林所有の論理 よりも、(一)としてあげた受益水田の面積の多少による分配の論理の方が切実だった。 名手庄といえば地頭さえ設置されなかった高野の膝下荘園である。その力は粉河が太刀打 ちできるようなものではない。この後の相論は建長裁許の遵守を求める粉河に対し、ただ 高野山の力を背景に実力での支配を続ける名手との対決、弓矢の争いになっていく。 「木斗」とは何か それではその名手が破壊し続けた、問題の中分の木斗とはいかなる構 築物だったのか。まず史料を引用してみる。 (史料略) 「木斗」はなんと読むのだろうか。宝月氏は「木」と「斗」の二字を結合して一字となし たもので、天正三年(一五七五)の和泉国岸和田池の史料(『松浦文書類』)に見える「 計木」と同様のものとされている。一方太田順三氏は『和名抄』に「度賀多 柱上方木也 」とあることから「とがた」と読むとしている。しかしこれは建築の斗木共のことで少々 意味が違う。  筆者はこの字は「と」と読むべきだと考える。その理由の第一は、この種の用水路内に 設けられた分水施設を現地で「とわけ」といっていることだ。人によっては「とあけ」と いっているように聞こえることもあるが、「とわけ」が本当か。「と」において分けると いうことだろう。また分水施設を点検することを和歌山市域では「本と調べ」といってい た。「と」の言葉そのものもこの地で使われている。『那賀町史』近世・近代史料所収の 「上名手村江川中・西野山水利組合記録」(貞享四年の記録を大正元年に写したもの)に は「分水戸」として「門井之戸」、「竜井之戸」ほかの名が見えている。今でも「石の戸 」などと読んでいる。「木斗」はこの「戸」に同じで「と」と読んだ。「と」には石製の ものと木製のものがあるが、「木斗」であれば後者である。  「とわけ」の語は近畿地方では一般的に使われる。宝月氏前掲書の「施設による分配」 の項に大和国薬師寺領内の勝馬田池に関わる天正十四年(一五八六)、および慶長十一年 (一六〇六)の史料が掲げられているが、  「勝馬田池御分水 戸分口 破損ニ付相改了」  「水口 戸分 乱候ニヨリテ此度相改遣了」  「三か郷 戸ワケ 五尺弐寸」 と記されており、「戸分」(とわけ)の用法が確認できる。「と」には「戸」の字を当て ることも、「木斗」の字を当てることもある。宝月氏が木斗と「木」と「斗」の二字によ る作字と考えたことは、計るという「斗」の語義からしても的を得たものだった。  なお和泉地方では分水施設を「戸木」とも呼ぶ。「度木」と記したものもある。奈良地 方では後述する岩井川の場合、元和の史料に「土木」と見える。「と」(斗)にも「ど」 (度)にも計る(計り分ける)意味がある。「と」の木、即ち「とき」(分水木)が濁り 、「どき」とも混用、併用されたものか。 中分の「木斗」の位置に関する研究史 さて従来の研究における二つの分水木斗の現地比 定に関する説を見ておく。まず太田氏の場合、「西川原の下、学橋付近の上下二つの原盛 井堰」に比定している。「一一カ所の井堰のうち、この二カ所だけが名手と粉河の両方に 引水されている。」というのがその理由である。ところが原盛井堰なる井堰が見つからな い。学橋という橋も西川原ではなく野上にある。学橋の近くに森井という井堰はあるから 、それの原型を「原(げん)盛井(もりゆ)堰」と表現したものだろうか。しかし氏のい うような左右に引水できる構造ではない。中分木斗は破壊されて結局機能しえなかった。 文書には残ったが存在はしなかったのである。そのまま現存していると考える必要は全く ない。  次に小山氏は「両岸へ同時に取水できるような場所は想定しがたいし、今日の井堰にも そのようなものは存在しない」として両方ではなくいずれか一方のみに取水する堰だと考 え、下堰の「丹生屋用水・坂田堰」を「はんだせき」と読んで今日丹生屋に引水する半田 堰に、もう一つの上堰を名手に導水する大井に比定した。そして別図(第一図)のように 中分木斗の構造を考えられた。 中分の「木斗」の構造-小山説への疑問  しかしこの図については二点ほど疑問がある。 第一は下の井堰から二分一の水が下流に流れ出ているが、一体どこにいくのだろうかとい う疑問である。粉河の水でも名手の水でもないとすれば捨てられる水になる。しかし一滴 の水を争っているのにそんな馬鹿なことをするはずはない。それとも下流のどこかでまた 名手・丹生屋の間で分水するのだろうか。しかしそれなら裁許の中で何らかの関説があっ てしかるべきだし、なにより夏の水無川(名手川)は枯渇して河道内には流水はない。わ ずかに堰の設けられている場所に湧水点があって、そこのみに水が出ているのである。枯 渇した下流の河道に水を流すことなどまず考えられない。 もう一つの疑問はこれで中分になるのだろうかという点である。上の堰で名手が二分一 、下の堰で粉河が残りの二分一、つまり四分一では二対一の配分にしかならないのではな いか。この比率では建長裁許の趣旨に異なるし、名手には有利になる。有利な名手が恨ん で意趣返しなどするはずはない。 各地の分水施設 そこで全国各地にあるこの種の施設を見てみよう。 (1)奈良市岩井川の一の井手、二の井手の場合 分水木と井堰本体の二つが一セットである。一の井手から取水するのは鹿野園である。 分水木は長さ全長二間で、二カ所の切り込みによる分水口がある。左岸、鹿野園分分水口 は長さ二尺六寸、深さ一尺、もう一つの分水口は長さ七尺四寸、深さ一尺、この分は二の 井手に導水される。一の井手取水分、つまり鹿野園分が二分六厘、26%を取り、残り二 の井手分が七分四厘、74%を取るという配水をし、実際の分水はその直下の井堰で行っ た。二の井手分水木は全長三間で同じく二カ所の切り込みがある。右岸白毫寺分が長さ六 尺一寸、深さ一尺、もう一つの切り込みは長さ三尺九寸、深さ一尺、この分は下流に流れ て百百(どど)の鼻井堰で古市が取水した。六分一厘(74%の61%で45%)が白毫 寺、古市が三分九厘(74%の39%で29%)を取る。比率は各村の田積比に対応する 。前掲の(一)の論理そのものである。この構造は明和八年(一七七一)京都町奉行所の 裁許によるもので、二百年以上を経過した今日に至るも厳格に守られている(以上第二図 )。 (2)山口県防府市馬場川用水の場合  重源で知られる周防阿弥陀寺領の故地を灌漑するのがこの用水である。水源は明治初年 につくられた二つのため池であるが、日常的には地水、即ち本来の川の水が使用される。 仁王門前分水、椿井手、中井手、大井手など幾つもの分水点があり、それぞれに分水装置 があって、それを「定盤」(常番)と呼んでいる。第三図に図示したように上には石でで きた分水施設をおく。石には分水比に応じたしきり(分水口)がある。その直下で右岸、 左岸、双方に水を引く堰が作られている。岩井川ほどには大規模ではないが、原理は同じ である。 (3)名手川大井水路中の「とわけ」 今日の名手川(中世の水無川)の本流そのものには分水施設はないが、そこより取水す る各水路にはたくさんの分水装置がある。これを「とわけ」(戸分け)と呼んでいること は先述した。石でできたものも木でできたものもある。那賀町内の池がかりにも、四十八 瀬川から取水する文覚井(かつらぎ町)の各水路にも多く見られる。それらの構造は第四 図の通り。 建長の中分「木斗」の復原と上堰・坂田堰の現地比定ー一つは野上大井  そこで以上を ふまえて建長の中分木斗を第五図のように復原してみた。全国各地の分水木に同じ構造で ある。木斗において平等に配分された水は、その直下に設けられた堰によって、右岸、左 岸の双方に配水されていく。上堰においても、下流、坂田堰においても構造は同じと考え られる。  それでは次にこの各中分木斗の位置について、現地比定を行ってみよう。最初に中世文 書に登場する水無川にかかる用水および井堰の名を見よう。 (1)一の井、二の井(仁治二年)〈『那賀町史』中世史料四三号〉 (2)三堰ならびに清水 (建長二年) 〈六八号〉 (3)両堰上下(建長五年) 〈七四号〉 (4)坂田堰、上堰、または丹生屋用水・坂田堰ならびに上堰(建長六年、永享六年)    〈七七号、二三八号〉 (5)「野上之用水」(至徳三年・1386) 〈二〇七号〉 (6)「野上ノ大井」(年欠)   〈二五七号〉  このうち(5)は御影堂文書中の名手・丹生屋の用水争論に関わる十一通の連券中の一 点に見えており、問題の用水のうち一つが「野上之用水」とも呼ばれていたことが明白で ある(この点『那賀町史』ではわかりにくい。『粉河町史研究』一一、または大石直正「 名手庄・丹生屋村用水相論の新史料」『月刊歴史』二七、のち豊田武『高野山領荘園の支 配と構造』に再録、を参照のこと)。(6)も「 野上ノ大井ニ粉河寺就不可相糸寄之由 」とあって該当の用水であることは明白である。「大井」は建長二年の売券(六七号)に 「限北大井」として登場し、この時期の存在を確認できる。野上は名手庄の中心的な村で あり、今日にも大井は存在して野上、馬宿の一部(野田周辺)など名手の村々を灌漑して いる。ほかに (7)「べべ井」(応長元年) 〈一四二号〉 が売券の四至に見える。べべ井も現存するが、野上や馬宿よりははるかに下流を灌漑する 。ほかに「字黒田井」(延元二年〈一七四号〉)とも見え、研究史では用水としているが 、小字として現存する地名の「黒代」(クロタイ)か。 以上から紛争となった用水の一つが野上大井であったことが明らかになる。しかし残る 三つの堰も含めた四つの井堰の復原を行うためには今日の名手川流域の水利慣行をまず復 原していく必要があるだろう。但しこの地域では水田耕作から柑橘栽培への切り替えが行 われて、すでに四〇年近い歳月が経過している。水田がなくなって久しい今、過去の水利 慣行については聞取調査によって古老の記憶を呼び起こしつつ、復原することになる。

三 昭和三〇年代までの水利慣行の復原

「水分け」慣行のある井堰  名手川は中世の呼称水無川が語るように、土石の堆積で水 量は少なかったが、所々に伏流水の出るところがあり、「がま」と呼ばれる淵があった。 そしてそうした水のたまりに井堰が設けられていた。上流の井堰できっちりと堰いて水を 完全に止めたとしても、下の井堰までは距離があったから、 次の伏流が再び出ていたり 、水田からの余剰の落ち水が加わったりして用水をまかなうことができたのである。 し かし各井堰の中にはきわめて近接しているものもある。特にその井堰が一方は左岸(即ち 名手)へ、一方が右岸(即ち丹生屋)へ、と分かれている場合には水争いが生じやすい。 名手川に設けられていた用水井堰は第六図に示したとおりである。このうち名手と丹生 屋(今日では「ニュウ」と発音する)の間で常に問題になったのは、高井(左岸)と堂の 井(どのゆ、右岸)、そして大井(おゆ、左岸)と諸井(右岸)の二組の井堰であった。 この二組はそれぞれ左岸に行く堰と右岸に行く堰とが一〇〇メートルも離れていなかった 。かつ二組とも左岸名手への井堰が上流にあった。旱魃になればどうしても上流名手が有 利になる。名手・野上側の用水が多くの水を持っていきすぎないよう、この二組の間では 「水分け」の慣行があった。つまり野上、丹生屋の立ち会いによって、水を配分するので ある。 「水分け」の慣行があったのはこの二組だけである。これ以外の用水は井堰が近接して いる場合でも、それぞれが右岸なら右岸どうしに同じ方向に引水するもの、つまり同じ村 の田を灌漑するものだったから融通が可能だった。たとえば諸井は灌漑後の余水を下流の 半田井に落とすことができる。だから仮に諸井が取りすぎた場合にも村の中で調節するこ とができるので、争いになることはなかった。また右岸、左岸と別地域を灌漑していても この二組以外は井堰間の距離が長く、特段の問題は生じなかった。例えば青井は左岸、そ の下の森井は右岸を灌漑するが、井堰間の距離は七百メートルは離れており、前掲の二組 が百メートルも離れておらず近接していたことに比べれば、かなりの距離があって浸透水 や落水を集めてなんとかまかなうことができた。 「水分け」の実際 それでは「水分け」はどのようにおこなわれるのか。日照りが続き、 水が不足がちになってきた場合、下流位置に井堰のある右岸の村が、上流位置に井堰のあ る左岸の村に「水分け」を申し込んだ。即ち、名手・野上の高井に対しては堂の井を利用 する西川原(にしかわばら、西川原が中世には丹生屋のうちであったことは『角川日本地 名大辞典・和歌山県』七八五頁)が、同じく野上の大井に対しては諸井を利用する上丹生 屋が「水分け」を申し込む。この申し込みを野上は拒否することはできないが、必ず二・ 三日は待たせることになっていた。「水分け」は本堰から引水する水路に設けられた余水 吐で行われた(別図参照)。両方の村の責任者である惣代と水の責任者である勧頭(カン ド、注3)の立ち会いのもと、本来ならすべて野上に行く水を丹生屋にも配分するのであ る。分水の比率について、いろいろと尋ねてみたが、この慣行が行われなくなってから長 期になることを反映してか、諸説が返ってきた。多数意見は四分六というものだ。高井に ついては四分六で四分が西川原、六分が野上、大井については四分五厘が丹生屋、五分五 厘が野上ともいう。いずれも野上の方が多いが、本堰の地下を通り丹生屋分にいく漏れ水 があるから、絶対量としては半々という原則だともいう。ほかにも初回は半々、二度目は 四分六だったという意見や、七・三(七が野上)という意見もあった。水分けは惣代立ち 会いのもと、勧頭が行った。水を分けるのは戸ワケのような分水装置によるのではなく「 目検討」「目分量」によるものだった。配分の比率が人によりまちまちなのはそのせいか もしれない。  以下具体的に古老の話を聞いてみよう。 聞書 野上・前田周治氏(明治三八年生まれ)の話  立ち会いをするのはおゆ(大井)。高ゆも、どのゆと水分けをする。両方とも四分六、 六分が野上。水分けはずっと昔から、我々のてて親から、ずっと前から。向こうからは旱 魃になってからは自由に言って来る(いつでも要請をすることができる)。要請があった ら「おい、カンド、本堰(名手川本流の堰)から(水が)落ちているか見てこいよ、(落 ちていれば)水が落ちているからまあまあええよ(まだよいと言って待たせる)。二日か 三日はおく。そのあいだに雨が降ることもある。そうなったら元どうりで(野上が)得を する。(待たせている間は)特別水をあげといて、それからあげんのや。本堰から水が落 ちているときは(水分けは)せえへん(本堰からの落水が水分け実施の目安だった)。本 堰に落ちるようにこっちで水路に土をいれる。(すると)少しは落ちる。それが特別水。 根性悪い。けど向こうも満足の水がなくてもそこそこいける。それで水分けになったら野 上から二人か三人、向こうも二人か三人が来て、取り水が上がっているコンクリのところ (余水吐)で目検討で分ける。第一回は半々、二回は四分六、しかし落ちる水の方が嵩( 量)大きく見える。それは、どないにいうても(丹生屋が)負ける。四分六いうてもまあ まあ七分も八分も(野上に)あがっているよ。それがまあカンドの何(手腕)でね。まあ これでやれよ、きついけど、といっておく。カンドが(これぐらいの水で)いいと言って も役員がそれは多いぞと言う。だから得をする。二・三日したら向こうがもうすこしなん とかならんかと言って来る。(そこでもう一度調整する。)  高ゆがかりは約七町、おゆは池と合併で三六町、おゆのみで四町、青は四町で野上は合 計五四町(ママ)。青は馬宿に三町、野田に二町。野田は馬宿の一部、北のほう。野田に は高ゆもおゆもいく。ホンタド(?)って池の水も一町ほどかかる。今は田圃はいっこも なかろう。昔は皆田圃。青(ゆ)が一番苦労しておゆから落とした。池は小さいのをいれ て四つ。おいけ(大池)はここまで一里。みやじ池、中の池、地図には東池、篭池になっ てるかな。カンドが水上がり具合を見て、池を抜いていいか、抜かんでもいいかを決める 。川も池も長い水路をつれてくる。うち(村中)へ来てからも難しい。朝から昼が半ク、 昼から夜が半ク。朝から晩は一ク。一つの溝手を四反に引く。とあけで分けて、一反半に 一ク半、二反半に二ク半(クは「筋」と同じか*)。それで田に水をいれていく。池やっ たら朝抜いたら夜止める。川やったら夜昼くる。川は(人間の都合にあわせてくれないか ら)時間的に手間。おゆは年がら年中、用心水で引いている。生活用水で飲むこともでき るきれいな水だった。 野上・高井勇氏(明治三七年生まれ)の話  高井は一番距離が長く、隧道も二つか三つ、抜いている。一番上だからどちらかという と水は豊富であります。水分けといって、次の(下流の)井と協定があってね、七・三と か言って取り入れ口のところで分水をやった。高ゆにたいしてはどのゆ。おゆともろゆも する。青(ゆ)ではやらない。森と青の距離七〇〇メートルほど。かかる反別もなんで( 少ないの意か)。  下のものが分けてくれと言ってきたときはね、絶対に分水にしなければならないきまり 。だいたいねえ、七・三ぐらいの程度。野上が七。正確なものではない。目分量で水の落 ち方が多いとか、少ないとか。とあけをこしらえていれば双方とも水の同じ高さに流れる 。目盛りを付けたようなもの。それは正確。しかし水分けは目分量。  乾きだした頃に下からゆずってくれよと言って来る。水なくて稲が枯れてくる。田が白 なる程度。高ゆでは(水分け実施の判断基準は)本堰の水云々ではなく、田の実情だった 。こっちはあんまりはよう言うてくんなよ、という。向こうも悲鳴あげる前に言わなけれ ば間に合わない。ある程度駆け引きがあったんでしょう。 水引の後、水の流れがよくなるよう、御神酒(おみき)をいただく(両方の役員、勧頭が それぞれ集まって懇親会を持つ)。水の何によって七・三とか。野上が七持つ。本当は分 けてくれと言う衆がよけいにせなかんように思うけど。(この費用については正しくは両 方の村が半々に負担したらしい。四分六だったという人もいる。) 田一反につき水がどれほどいると決めてかけてあった。一反には一反の水。一反を四つ に割って二合五勺。それよりは細かく割れない。二合五勺が二つで半筋。それから上が( 半筋二つで)一反。一反一筋(*)で朝から晩までいれるけど、元が少なければ晩までに 入らない。上丹生あたりは専門の水引が付いている。野上は付いていない。銘々がやって いる。昔から分水といってとわけで必要量に応じて分けた。池抜いたら分けると言って分 水していた。とわけは木で作ったところもある。松で作って子どもの時から一度もいじっ てない。石で作ったところもある。ここは南も東も石。馬宿には石に目盛りをしたものが ある。草の長さで分けることもある。(とわけに刻まれた配分比を変更して分けるときの やり方のこと。)藁カシキのありあわせ。六反なら六反、六つに割って一反。草で六等分 する。半分の半分の二合五勺。目盛りがないところ、草の幅だけ取る。土で調節する。  「水抜き帳」というのがあって、一番から四五番まで日にちで変わっていく。お前のと ころはどこそこの田、小字の名前と何反何畝、帳面に書いてある。それを見てお前のとこ ろは何で少し貸してや、次に何番で返すから、(という具合に貸し借りをする。)絶対、 自分のところの名前の時は引く権利。 水引は付かないから自分たちで野上だけの帳面を作っていた(注3)。野上の土地へ馬宿 の人が作りに来る。何月いつかに何合何勺。見れば分かる。コンクリになる前、溝より低 いところの田、水が漏ってくる。(そんな人は水はいらないから)水だけを売ったりした 。  昭和一八か一九年頃、旱魃で作付けできなんだ。高ゆは半分も作っていなかった。戦争 でも人間(が)疎開(したが)、稲も水がないので疎開せい。昔の型の苗代、八寸五分か ら九寸の上、に植え方をする。その間にもう一つをこんどけ。稲を水が入る田に大きくな るまでこんで入れておいた。最終八月三日か四日の田植えになった。水が入らない田もあ ったから上の田はさつまいもを作った。それでも半分ぐらい米とれたかなあ。昭和二七年 七月十日、二十八年七月十八日、なな・じゅう水害と台風一三号のなな・いちはち水害。 高井はいかれて井堰復旧、土砂も押してきて集水管をい(埋)けた。おゆも青も隧道を作 った。 上丹生屋・根本文明氏  うちは三代に亘ってカンド。諸井は四分五厘、おゆは五分五厘。漏れがある分、一〇% の差。半田ゆは防火用水の決まりがあるから原則は一年中水をいれる。しかし嫌う人もい るからいつも入れているわけではない。下丹生屋の大きな家が半田さん。半田さんが作っ たのでその人の名を取った(歴史的にはこの説は必ずしも正確ではないかもしれない)。 もろゆ、半田ゆ両方で八町四反二畝二十四歩。四分がもろゆ、六歩が半田ゆ。もろゆから 半田ゆに落とすところがある。もろゆの水を半田ゆに融通できる。 時間水で水が細くなったら水分けをする。(水を見てみたら)野上は多いぞ、というこ とで申し込む。申し込んですぐと言うわけではなく二ー三日は置く(置かれる)。その三 日の間に(野上は)ケイ(毛)を付ける。あわてて田植えすると言うこと。一毛(ひとけ )、二毛(ふたけ)って田を植えるでしょう。その間に雨が降れば水は十分になるからや らない。雨が少なければまた申し込む。本堰の水という話は聞かないなあ。毛付けできや ん、水分けてくれってこと。カンドがまかないをする。  水分けが終わったら野上五人、上丹生五人、カンドにごちそうする。飲み食いの方は折 半、折半。四分とか六分とかそんなことは言わない。今は(省略した形で)長だけ。野上 は余っているから今はもう向こうで役員のみ。十人もいったら(集まったら)費用がかか る。  なお馬宿は今日大半が池がかりで名手川の水を利用するところは野田などの一部である。 しかし建長四年(一二五二)の名手庄悪党交名注文(七一号)には「馬宿村」の一一名が、 野上の一一名と併記されている。かつては名手川のかかりであったことが、明白である。 併せてお話を聞くことにした。 馬宿・堀内岩雄氏(昭和二年生まれ)の話  馬宿は名手川の水は引かない。上人池、お池(大池)、つきさし(月指)池、がもたろ 池、まった池(末代池)、尻池。お池がかりとつきさしがかりがあって、上人池の水は両 方に入る。余った水は、まった池にいく。三つの池で二五町水田があった。今は一町余し。 水引帳て帳面もって、きちんと算盤もって何分の一か計算する。樋一っぽん抜くと一日四 反分池の水が抜ける。それを何合何勺かに分ける。一番、二番て書いてあって雨が降った らいらんから延ばしていく。八番まであった。殿様水もあったんですよ。どういう訳かし らんけど。もう一つ年の人やったら知ってるけど。殿水は番外の水だった。一二三四とき て殿水、五六七八ときて殿水。普通やったら七日か八日にいっぺん。それが殿様水は四日 にいっぺん。ほかに較べれば優遇されていた。殿様水がかかるのは講の田だった。大師講 の田。昔はとのさんの関係か。(そこの地名を)城山(じょうやま)って云う。カンドっ てのは聞かない。水利委員。 ほかに聞き取り調査には西川原・井上政之助(明治三七年生まれ)、額田やす子、野上・ 高井肇(昭和九年生まれ)、東川原・畑中実 、上丹生・山中武雄(大正四年生まれ)、 小谷健三、馬宿・角田正広(大正一五年生まれ)らの諸氏のご協力を得た。記して感謝し たい。  このように旱天が続き水が不足する限りは水分けを継続する。雨が降れば中止されるが、 旱天になれば再び下の井堰が水分けを申し込む。 このくり返しで灌漑期間中は数度水分 けが行われた。注目されるのは実態は別としても、漏れ水も含め名手、丹生屋間では水は 半々だと言う意識がそれとなく感じられたことである。建長の中分の精神は生きていたと も言える。一方決して名手は損害を被ることはない仕組みになっていた。そのことも注目 されよう。  打擲刃傷、弓矢、合戦、焼払、殺害村民、といった不毛の対立が二百年以上もの間、繰 り返されていた二つの村。その長い歴史の帰結に我々が見たものは、水分けの後は美しく 分かれる、という一献の酌み交わしであった。  殺人まで犯すほどに憎しみあっていたはずの両村がこうした形で和解する。それまでに は、おそらくは長期にわたる様々な試行があったはずである。聞き取り調査のおり、二つ の村が二百年に亘って対立していたことを知る人に出会うことはなかったが、我々は歴史 学徒として次のことを知る。互いに顔見知りとなって、意思の疎通を図り、無用の対立を 未然に防止する。この水分けと懇親の慣行こそ、歴史的体験を生かした農民の英知として 高く評価されるということを。 そこで次に再度、建長中分木斗の現地比定を行ないつつ、この歴史的和解に到るまでの 経緯を推測してみたい。

四 水利秩序の形成 ー二つの正義と二つの原理の調和ー

中分木斗の現地比定 大井、半田井、ともに一年を通じて引水していた。そのことか らしてみてもこの二つは基幹用水だと考えられる。丹生屋にとっては諸井よりも半田井の 方が重視された存在だったと推定しよう。 さて中世史料に登場していたのは、野上大井と丹生屋用水・坂田堰であった。現在では この二つの井堰の間に諸井があるが、上記の理由から、かつては大井、半田井、二つの井 堰が近接して存在していたと考えられる。二つの中分木斗のうち一つの切り込み口から取 水するのが野上大井である。中分木斗の構造に関して言及したように、その木斗において は、残る片側の切り込み口から丹生屋への用水が水を引く。先学の指摘のように「坂田堰 」を「半田堰」と読むことができるのであれば、その丹生屋用水こそ半田井になるはずで ある。 このように二つの中分木斗のうちの一つ、「坂田堰」を今日の大井、半田堰に比定する と、残る「上堰」は当然その上流になるが、大井より上で取水する名手の用水は、高井以 外にはない。「上堰」では高井と堂の井の原型になる用水がそれぞれの切り込み口から取 水していたと考えたい。要するに二つの分水木斗とは今日水分けをしている二組の用水だ ったのである。但し一点気になることは、高井がかなり高度な技術で築造されていること である。今日の高井は災害の都度、隧道に変更されるなど近世的・近代的な技術を再投入 して維持されてきた用水である。中世にも、はたして存在していたのかの検討からまず始 めなければならないが、かつては同じ紀伊国の阿手#河庄の史料に登場するような高樋が 多用されていたのであろう。中世用水であると判断してよいと思われる。しかし逆に高井 が高度な技術による用水であることを手がかりにして次のように考えてみたい。つまり高 井はもともと高度な技術によっていたこともあり、開鑿当初はなかなか用水としては機能 しなかった。いってみれば不安定で取水能力が低かった。そのため粉河の側も、とりとめ て高井の存在に異議申し立てをすることはなかった。力関係のこともあり、黙認していた か、黙認せざるをえなかったかのいずれかである。しかし極度の旱魃となった延応・仁治 には大きな障害物に思われて、一挙に火を噴いたのである、と。 二百年間の争いー様々な様相  建長以後も対立がやむことはなかったことは先学の指摘 の取り。以降の対立にはいろいろな要素が含まれている。先に丹生屋(宇野)氏の動向に ついて述べたが、この後裔にはいずれも名手庄の荘官になるものが多かった。正応から南 北朝期にかけて、名手庄下司、公文、刀祢、惣追捕使の名に、『尊卑分脈』宇野系図にも 登場している宗治、頼基、貞治らの名と、ほかに国治、為治、宇野入道覚義の名が見える。 弘長・文永期に丹生屋地頭(品川氏)が名手沙汰人(宇野氏か)と対立する背景には新地 頭と旧来領主との対抗が感じられる。また水論で対立しているときの両庄・村の荘官職を 同一人が兼帯することは考えにくい。宇野・丹生屋一族も一枚岩ではなかったはずだから、 南北朝内乱期に家は分裂していたのであろう。つまり丹生屋村に残った宇野氏と名手宇野 氏の対立も考えられる。しかし基礎にあったのは農民の対立である。  名手・粉河は二百年の争いを続けたが、その間日常的に武力対決していたとは思われな い。荒川英俊・大隅和雄・田村勝正編『日本旱魃 #林雨史料』(一九六四)などを参照 しつつ関係資料によって、名手・粉河間で武力行使があった年と、旱魃の年の関係を見て みよう。高野に文書の残る年、例えば明徳四年(一三九三)、永享五年(一四三三)はま さしく大旱魃の年だったから、抗争は旱魃の都度起きているといえそうである。記録の残 り方が少ない南北朝期には、天候の様子も分からない年が多い。紛争記録の残る貞和二年 (一三四六)、至徳四年(一三八七)などはおそらく小雨の年だったのだろう。一方永享 の例などを見ると『満済准后日記』では用水相論によって高野が名手に発向、それを守護 方が阻止しようとしたことにより、高野の内部が衆徒と行人に対立し、遂に高野山で災上 が起きたことが分かる。ところが詳細な古記録の記述に比べ、この事件に関わる古文書は ほとんどない。一点守護代遊佐が高野に出した粗忽(楚忽)の弓矢を戒める書状(二三六 号)があるのみで、文書からは村どうしの対立の様子はうかがえない。このような史料の 残りかたからすると、文書が残らない年でも嘉元元年(一三〇三)、暦応四年(一三四一 )、応永一四年(一四〇七)を始めとする多くの旱魃の年には必ず両村は対立していたと 見て間違いあるまい。 二つの正義・二つの原理の対立  なぜこのような激しい対立になったのか。粉河にし てみれば、朝廷から中分の宣旨が出たのである。天子様の命令である。なぜ名手はそれを 守らないのかということになる。だいたいが水無川の水は半分は我らの村に降った水であ る。半分を取るのは当たり前ではないか。冒頭に見た(六)の論理である。  名手にしてみれば十分な調査もしないで一方的に出された中分の裁許など困る。丹生屋 の田など名手の水田に比べればわずかしかないではないか。朝廷・守護がなんと言おうと 我々には田と村人の命を守る義務がある。冒頭に見た(一)の論理である。ともに一歩も ゆずれない正義であった。  そして高野山はこの正義を総力を挙げて支援する。貞和三年(一三四七)の相論には鞆 淵庄の下司まで動員され、負傷した彼は高野山より感状を得ている(一九〇号)。高野山 領荘園内の武士団の総動員である。また正平一八年(一三六三)南朝方からは寺家の当知 行を勅裁により保証されてもいる(二一〇号)。  この間二つの村がどのような配水の仕方をしていたのか分からないが、水量の多い年に は、上流が下流に融通することは行われていたのだろう。南朝綸旨が出た直後の正平二〇 年(一三六五)、粉河雑掌が「云去年、云当年、及難渋度々」を訴えたことからはそうし たニュアンスも感じとられる。しかし旱魃になると圧倒的に不足を感じる粉河・丹生屋は 村や寺に保管されている古文書を持ち出して、本当は中分ではないかと叫び、名手の用水 をゲバルトで壊す。その都度名手が紀ノ川流域の高野領の武士を動員し武力で報復するの である。過去に高野が偽文書を作成するなど小細工を労したことは、恐ろしく高いつけに なってしまった。 水利秩序の形成・二つの村の正義の調和  それでは激しい対立はいつ解消されて昭和の 姿になったのか。このことを語る史料はない。しかしもしこの対立が継続されていたなら ば必ず何らかの形で高野山や近世文書に記録が残されたはずだ。そのことを考えると記録 がなくなる段階、つまり応仁以降には紛争の沈静化が模索されたと考えたい。 具体的に は以下に述べるように近世初頭には解決が図られたと考えるが、さてそれでは何がその歴 史的和解を可能にしたのか。 (一)長期にわたる武力抗争の疲弊。消耗戦以外の何者でもない武闘に両村とも厭戦気分 が充満していた。 (二) 池の充実。嘉元三年(一三〇五)の史料(一二七号)に「オハナ池」とあるほか、 江川村の山田池などいくつかの池の名前が中世史料に登場している。池がかりであった馬 宿には殿様水が存在した。そのことも他地域の例からすると、在地領主による池の開鑿を 語っていると思われる。こうした池が名手川流域、二つの村の奥に次々に築造されて用水 を補充していった。名手川のかかりであった馬宿は池がかりに切り替えた。 (三) 境界が椎尾山の尾根になったこと。これは現在の那賀町(名手)と粉河町の境界 が尾根になっていることからの推測である。東谷を境とする点は絶対に名手側が容認でき ない。早い段階で粉河・丹生屋が妥協したはずである。 (四) 丹生屋側の正義の採択。今日の配水は原理としては地下の漏水分をあわせれば半 々であるという意見があった。これは粉河の主張に合致する。中分の精神、山に降った水 は自村で処理できるという考えはいずれも容れられているのである。むろんこの協定がそ れ以前の分け方に比べればずっと有利だったこともある。丹生屋の申し出を名手(野上) は拒否できないのだから。 (五)名手側の正義の採択。名手はとにかく水田の受益面積が丹生屋よりはるかに多い。 実際の配水では七分も八分もとる。実さえあればよい。武闘により犠牲者が出ることや、 浪費がかさむよりはましだろう。  こうして(四)と(五)は調和された。本稿は副題を「水利秩序はなぜ形成されなかっ たのか」とした。その答えは二つの村の正義の対立である。しかし二百年以上の時間の経 過こそは必要だったが、最終的に「水利秩序は形成された」。それは二つの正義の調和で あった。そして二つの原理の調和でもある。  さてこの調和は具体的な事実で示される必要があった。驚くべきことだが、それは武闘 を繰り返していた二つの庄・村の統合であった。 対立する村の統合ー丹生屋は名手領に (六)上丹生屋、下丹生屋、西川原の名手川右岸の村が、名手庄に吸収された。『粉河寺 旧記控』(参考資料四号)に「上下丹生屋・河原三か村、昔より粉河寺領のところ、今名 手庄に成」とある。この今とはいつか。遅くとも元和九年(一六二三)には丹生屋が名手 組に属していることが確認できる(『南紀徳川史』一〇)。『粉河寺旧記控』は『紀伊続 風土記』編纂のおり(文化三〜一二・一八〇六〜一五)作成されたものという(『和歌山 県史・中世史料解題』)。しかし文中、奇妙に「天正十三年まで何年」という記述が多い。 豊臣秀吉による紀伊攻略の年、天正十三年(一五八五)を強く意識したものである。  後世の記述はいったんおこう。調停案はイコール統合案であった。このような統合はは たして高野山や粉河寺のもとで可能だったか。そうではあるまい。この案が当時の権力者、 村々に超越する存在によって示される。そしてそこでの儀式において手打ちとなったのだ ろう。その調停者にふさわしいのは誰か。紀伊の中世的権威、高野山を徹底して蹂躙した 存在。それは新たな権力者・秀吉権力であった。  かくして調和は可視化された。対立する二つの庄・村は一つの村になったのである。丹 生屋三か村(上下丹生屋・川原)も密かに力の強い名手に統合されることを望んだのもの かもしれない。昭和三〇年の粉河町成立まで存続していた川原村(上下丹生屋・東西川原 ・野上・馬宿)の原型である。  しかし「水分け」に見た巧妙な配分案は当事者である農民自身の様々な試行錯誤と、そ れをふまえた上での知恵がなければ生まれてこないのではないか。かつての上級権力の作 意、小細工、そして見せかけだけの正義。そうした行動、判断が長期の混乱を招いた。結 局は農民自身が解決のみちを探っていたのである。その試行は応仁以前に遡ってなされて いたのであろう。その努力が中世社会の崩壊によってやっと実ったのである。わずかな水 源を分配しなければならない両岸の村々の地理的構造はその後も変わることはなかったか ら、こぜりあいは近世にも消えることはなかったのかもしれない。しかし大枠としては紛 争は終了した。手打ちは功を奏した。非日常から日常へ。人々は落ちついた生活を始める ことができたのである。 注  1:以上については服部『景観にさぐる中世』(一九九五)九〇、九七、三 七〇頁。同「巻向・穴師の山と水」(永原慶二編『中世の発見』一九九 三)   2:名手の一の井、二の井、粉河の一の井が三堰で、ほかに水源となる湧水 があったと考えられる。この清水については高野側の史料にはでてこな いから、粉河が権益を主張した水無川周辺に湧出する水であろう。      3:勧頭の語は中世文書にも見えている。勧頭は野上の場合、各井堰(大井、     高井、青井)に一人ずつ付き、ほかに大池にも付いた。江川では「灌人」     の字を当てている。      4:古老の話にしばしば出てくる筋は寛喜二年(一二三〇)の史料(三五号) に「池水一筋付置也」、嘉元の史料(一二八号)に「山田新池水一付了」 とあるものを始め、しばしば中世文書に登場している。水抜き帳の祖型も 水無川に隣接する粉河庄東村に残る文明七年(一四七五)悦谷池分水本帳 のように中世の登場している。宝月前掲書、小山靖憲前掲書、黒田弘子『 中世惣村史の研究』参照のこと。一筋を一反とも呼ぶ。なお嘉元の山田新 池や門井については同じ名手庄内でも江川村であるから、別の機会に報告 したい。 付記   名手川水利に関心を持って現地を歩いたのは、最初が一九八三年、次が 一九八七〜八八年だった。その成果を一九八九年に史学会例会(「水の 中世史」)で一部口頭報告したこともある。一〇年を経てやっと今回本 稿をまとめることになり、再度現地調査を行ったが、明治生まれの古老 は故人となられた方が多かった。謹んでご冥福をお祈りするとともに、 数々の貴重なお話を聞かせていただいたことに改めて感謝したい。