目次/南関町高久野/相ノ谷/西豊永
熊本県玉名郡南関町高久野地区 1998年12月19日調査 調査者 西田 博 中払 博之(1TE98853W) 協力者 村上 温子(62歳・久野字原) はじめに ・現在高久野地区は、6つの字に別れている。(前田・四島・原・後田・境田・柴ノ中) ・検地帳(活字か済)が存在している。 ・今回はシコ名調査がメインだが、この地区ではシコ名とは言わず、それに相当する呼び 名はない。 ・微細地名は2、3年前に村上さんが調査し役場に提出している。(現在所在不明) ・集落に「〜小路」というような名前はないが葬式組がある。 ・記載する地名等の場所については地図参照。 小字名 シコ名(通称地名) 地名に関する事柄 1マエダ モリグチ (前田) ナガゼマチ ウゼマチ 「大畝マチ」と書くカ ヲコキハ 場所は検地帳の配列から推測 モチダ 「餅田」カ マエダ ババ 上記のマエダを含むカ ミチコシ 「道越」カ ヨコマクラ サンタンゼマチ 「三反ゼマチ」カ ドイノウチ 所有者は「デノウチ」と呼ぶ ヤッサンダ ヤッサンが買った田 ショーバタ 検地帳では「正畠」カ ヤリノサキ ナガタンマエ トモノネ ナガタンマエの内にある ジゾーサンノマエ 地蔵さんのまえにある ヤナゼ ショーツケ 「小水(ショーヅ)」カ ヒライシ 「平石」カ 田の下から土器や窯跡が見つか っている *ミズアライ 増水で流される田 *ソーロク *ジンニョミダ *ウケ *スキノサキ *コスギサキ (*の6つは「ヒガシヅル」と呼ばれる地域に属している。) 2シジマ シマメグリ (四島) シマバタケ 「シマメグリ」の内にある畠。水田の中に島 のように畠がある。同じような島が隣の今村 に3つある。あわせて「四島」カ。 ナカゾノ 「中園」カ ヤシキウチ コブレ ウッツギナミ ヤシキダ ミチシタ タケンシタ 3ハラ ドドンヒラ (原) 4ウシロダ フタマタ (後田) ナッタケ ヒラキダ ヒュータンバタケ 「ヒュータン」は「ヒョウタン」のこと。 イワンシタ 「イグリイワ」と呼ぶ人もいる。 タニグチ 墓地。 周辺に「キャーネ」「ウーユレ」が あったが正確な場所は不明。 コガンツクリ 漠然とそう呼ばれる地域がある。検地帳によ ると「小かね作り」カ。 5サカイダ ウラダ 広義の「ウラダ」は、6柴ノ中にまたがる。 (境田) 狭義の「ウラダ」は、6柴ノ中にある。 ハタムネ ムクノウラ クリヤマンヒラ 畠。 イガワンヒラ 昔は畠だったが、現在は杉山。 6シバンナカ ウラダ 狭義の「ウラダ」。 (柴ノ中) ジンデン 「神田」祭りの費用をかせぐ田。 <その他の名前(場所は地図参照)> ・山の名前 ゴヒッチョーンヤマ タキノバル(タツノバル) ゴマツカヤマ ウゾノバル ヘーゾーヤマ ・ため池の名前(この地域では「ため池」を、「タンボ」という。) ジンデンノタンボ フルバカンタンボ ・川の深み,淵の名前 コンゴーマル デンデンブチ ・湧き水の名前 イガワ ・坂の名前 タツゴエ ミヤンシタンサカ ウーザカ ・崖の名前 タカイワ:自然崩壊で水路をふさぐ。 ・松の名前 オアソンマツ ・橋の名前 ヤナゼンハシ 葬式組について 高久野には5つの葬式組(シジマ組・ナカ組・シモ組・ウラガタ組(オク組)・マエガ タ組)があり、人が亡くなったときその組全体が葬式の手伝いをする。しかし、ウラガタ 組・マエガタ組の人が他の3つに移動したため、現在その制度は形骸化している。 八幡宮 高久野では、1年ごとに各家がおまつりしている。木製の小さな宮(オコクラと呼ばれ ている)を1年ごとにまわしている。 余談として 八幡宮に「電気記念碑」があり、大正11年4月27日点火とあった。 --------------------------------------------------------------------------------- 熊本県玉名郡南関町相ノ谷地区の歴史環境 1998年12月19日調査 調査・報告・地図作成者 前原茂雄 はじめに 相ノ谷地区は現在6つの組織にわかれている。馬立(またて)・横脇(よこわき)・清東寺(せいとう じ)・相ノ谷上(あいのたにかみ)・相ノ谷中(あいのたになか)・相ノ谷下(あいのたにしも)である。 但し、以前は相ノ谷中と下は一緒だった。祭礼は相谷の三霊宮(さんれいぐう)と天神平の万里森 神社と馬立の菅原神社の3つの氏子に大きく分かれる。小さな祭祀圏は幾つも存在する。相ノ谷 の耕地・集落は二城山(にじょうさん)の南側に広がる幾つもの谷に展開する。 相ノ谷(あいのたに)地区の歴史地名 小字名 通称地名 地名由来 1峠(とうげ) 吉地と相ノ谷を結ぶ峠 吉地越(よしじごえ) 吉地に越える峠 登山道(とざんどう) 馬立から二城山に登る道 登山道(とざんどう) 天神平から二城山に登る道 迎屋敷(むかえやしき) 不明〔「向い」の意か?〕 2間地(まじ) 不明〔慶長検地帳では「まし」〕 しらひゆ 不明 じゃあら 不明〔砂利が多いので呼ぶか?〕 大迫(おおさこ) 大きな谷になっている 窪ばたけ(くぼばたけ) 不明 松野(まつの) 不明〔慶長検地帳では「まつのを」〕 かぬきずり 不明〔「かぬき」とは桑のこと〕 3馬立(またて) 不明 上屋敷(うえんやしき) 不明 丸ばたけ(まるばたけ) 形が丸い 堂前(どんまえ) 祠の前にあたる 堂前堤(どんまえのつつみ) 祠の前にある池 酒屋の庭(さかやんきんだち) 元造酒屋〔文政5〜明治初〕の庭 4日岸(にちぎし) 不明 きっずし 不明〔「日岸」の範囲全ての別名〕 5東浦(ひがしのうら) 不明 山浦(やまうら) 不明 六十平(ろくじゅうべい) 不明〔慶長検地帳では「六十」〕 ぶくで 不明 深(ふか)っしゃん屋敷(やしき)「深っしゃん」という人名 開(ひらき) 不明 流下(りゅうげ) 不明 6前田(まえだ) 馬立集落の前方にある 小平(こびら) 不明 中島(なかしま) 不明 ゆわっかな 岩の突端〔慶長検地帳では「岩かはな」〕 水洗(みざらい) 不明〔氾濫原にあたるからか?〕 7たたら(*漢字略) 不明〔たたら遺跡の伝承はない〕 しんのばやし 不明 柳迫(やなぎがさこ) 不明 宮野(みやの) 不明 一反田(いったんだ) 面積が一反〔周辺に馬立の神田がある〕 どんどや場(どんどやば) 馬立集落のどんど行事の以前の場所 8中尾(なかお) 不明 上水洗(うえんみざら) 不明〔前掲「水洗」の上流にあたる〕 神田(じんでん) 馬立の菅原神社の神田 9松田(まつだ) 不明 10こだたら(*漢字略) 不明〔たたら遺跡の伝承はない〕 11琵琶の塔(びわのとう) 不明 獅子時(ししとき) 不明〔慶長検地帳では「しとき」〕 馬場(ばば) 肥猪町にあった競馬場の馬場 12横脇(よこわき) 不明 古郷堤(ふるごづつみ) 不明〔池は圃場整備時に消滅〕 古郷(ふるご) 不明 三斗播(さんとまき) 種籾(米か麦かは不明)を三斗播く面積 13深田(ふかた) 不明 出島(でじま) 不明 亀ん子(かめんこ) 形が亀の姿に似ている 神田(じんでん) 天神平集落の万里森神社の神田 どんべんひやし 「どんべん(男性器)」が震えるほどの寒風があたる 14平原(ひらばる) 不明 15天神平(てんじんびら) 以前天神社があった 杉谷(すぎたに) 杉が植えてあった 出島山(でじまやま) 尾根が少しせり出している むくろき谷(むくろきだに) 不明〔ムクロの木が植えてあったか?〕 東谷(ひがしだに) 不明 なかみち 谷の中を通る道 椎の木山(しいのきやま) 椎の木が植えてあった 古屋敷(ふるやしき) 不明 井川谷(いがわんたに) 湧水がある〔宝暦名寄帳では「井川谷」〕 どんどや場(どんどやば) 天神平集落のどんど行事の場所 16清東寺(せいとうじ) 以前当地にあったと伝える禅宗の寺名 後谷(うしろだに) 不明 寺屋敷(てらやしき) 禅宗の清東寺の跡地 山道(やまみち) 不明〔慶長検地帳では「山道」〕 17駄床(だどこ) 不明 おおたけうら 不明 ほきのうど 不明〔「うど」は谷の意〕 はんたて 不明 18相谷(あいのたに) 不明 19冷水(ひやみず) 不明 井川谷(いがわんたに) 湧水がある〔宝暦名寄帳では「井川谷」〕 どんどや場(どんどやば) 清東寺集落のどんど行事の以前の場所 楢山(ならやま) 不明〔楢の木が多かったからか?〕 岩貫(いわかん) 岩場になっている 20雁田(がんだ) 不明 柿ノ木畑(かきのきばたけ) 不明〔慶長検地帳では「柿畑」〕 どんどや場(どんどやば) 相谷集落のどんど行事の以前の場所 すく谷(すくだに) 不明 丸山(まるやま) 不明 やなぎ 不明 21小田(こだ) 不明 宮の下(みやのした) 相谷集落の三霊宮の下側にあたる 22七枝(ななつえ) 不明 石畑(いしばたけ) 不明〔慶長検地帳では「石畠」〕 丸畝まち(まるせまち) 形が丸い 23堀田(ほった) 不明 横ども(よこども) 「とも(堤防の意)」の横にある 24土取(つちとり) 不明 狸穴(たぬきあな) 不明〔慶長検地帳では「狸穴」〕 25堂突(どうづき) 不明 山伏塚(やんぼしづか) 旅中の山伏が当地で死去後まつる 柿ノ木畑(かきのきばたけ) 柿があった〔慶長検地帳では「柿畠」〕 26下堂突(しもどうづき) 不明 27舞木(まいぎ) 不明 28向原(むかいばる) 不明 *その他の地名 杉谷(すぎたに) 不明・・・・相谷の西側 ひやけ 不明・・・・前田の南側 妙見谷(みょうけんだに) 不明・・・・堂突の南側 相ノ谷地区の水利 相ノ谷の水利は基本的に湧水〔「出水(でみ)」ともいう〕が主で池水灌漑が従。大きな河川はな い。湧水の水量はさほどでもないが安定している。冷水と馬立の菅原神社南西の湧水は強い。湧 水は最近まで飲料水にもなっていた。相谷上(あいのたにかみ)集落は17駄床の奥山から孟宗竹の 樋を繋いで飲料水に宛てていた。灌漑水は基本的に畦越しで、「水口(みなくち)」を通して下の 田に落す。所有者が異なっても、畦越しで落すのが原則。 各池の築造年は不明。相谷上(あいのたにかみ)池と相谷下(あいのたにしも)池の灌漑域は小田と 堀田の田圃。上の池は湧水に基づく溜池。6月25日までは雨で灌漑し、25日以降は池水で灌漑す る。水当番がいる。県道大牟田・山鹿線より南は灌漑しない。平原(ひらばる)池は南側を灌漑。 とくに規則はない。たたら溜池は南側の田圃を灌漑するが、「一反田」の辺りは既に灌漑しない。 水門の開閉には受益者が立ち会う。池は防火用水を兼ねているので、池の清掃は受益者のみなら ず相ノ谷地区の全戸で行う。10月から11月ごろに行い、「池ざらえ」という。池には夏に稚魚を 放ち、清掃の時収獲する。 相ノ谷地区の祭祀 馬立の菅原神社(すがわらじんじゃ)の祭礼は現在は10月15日。しかし、以前は11月19日だった。 宮相撲もあった。阿蘇山神社(あそさんじんじゃ)と山の神(やまのかみ)の祭りは1月15日。地蔵 さんの祭りは年に3回あり、1月・7月・9月の各24日に行う。当番のことを「節頭(せっとう)」と いい、家順で担当する。節頭の家に集まる。馬立地蔵(またてじぞう)と菅原神社境内にある観音 を一緒にまつる。また、彼岸篭り(ひがんごもり)が年2回ある。五穀豊穣を祈るとされ、田植え 後の6月、9月に行う。菅原神社境内にある水神さん(すいじんさん)と「やごろさん」を一緒にま つる。それぞれの祭りを賄うために、中尾とたたらの「一反田」に「神田(じんでん)」が設定さ れている。合わせて20俵ほどの収穫がある。この他最近「先祖まつり」をしており、4月第1日曜 に行う。横脇の万里森神社(まりのもりじんじゃ)の祭礼は10月15日。以前の日は不明。秋祭りと もいう。節頭が神主の世話などをする。毎月1・15日は節頭は神社を清掃する。彼岸篭りは年2回で 。健康や五穀豊穣を祈る。「願立てごもり」ともいう。田植え後の6月と、9月の彼岸の入りの日 に行う。薬師まつりもある。9月15日に行う。この薬師は清東寺にあったものを火災による寺廃絶 後、現在地に移転してまつったものだという伝承が残る。横脇の先祖まつりは4月に行う。神田か らは8俵ほどの収穫があり、16万円ほどになる。それで横脇集落の祭礼を賄う。 本相谷(ほんあいのたに)と清東寺は地区は異なるが、祭礼日・祭礼対象名もそれぞれ同じなので、 一緒に述べる。それぞれ、天神さん、お観音さん、先祖まつりをしている。天神さんの祭りは以 前は3月25日だったが、最近は4月の第1日曜日にしている。節頭は清掃などをする。お観音さんは 4月17日。先祖まつりは9月12日で薬師さんの祭りを兼ねる。僧も呼ぶ。 相谷の三霊宮(さんれいぐう)の祭礼は10月15日。以前の日は不明。熊本県八代市の妙見宮を分社 したものとの伝承がある。 正月にはそれぞれの湧水に「水神」をまつる。御幣と竹の筒に入れた御神酒を供える。 夏の旱魃時には雨乞いの祭りをした。相ノ谷では三霊宮と万里森神社と馬立菅原神社で行い、ば らばらに行列を組んで肥猪町と三加和町との境の場所に集まる。他地区からも集まった。そこで水 貰いの願をかけて、今度は3つの宮からの行列は一群となって、相ノ谷地区を周る。激しい太鼓踊 りを踊りながら、行進する。各宮から持ちよった大きい太鼓を叩く。その太鼓は低い音がした。今 でも残っている宮もある。行列は一緒になった後、三霊宮、万里森神社、菅原神社の順で周る。菅 原神社では藁で作った1メートル弱の男性器を模したものを作り、女性器も作り舞う。男性器には 陰嚢を模した瓢箪を2個ぶらさげる。以前、挙式を間近に控えた見物中の女性に向って藁の男性器を 押し付けて冷やかし、婚約者と大喧嘩になった。それ以来雨乞い祭りはしなくなった。1935年前後 のこと。相ノ谷地区では一般に、雨乞い祭りは旱魃の時だけ行われる臨時の行事であり、行う年は 役員が集まって日程など協議していた。8月ごろにしていた。 どんど行事はそれぞれの集落で1月14日に行う。現在は田のなかで行うが、以前は「どんどや場(ど んどやば)」といわれる場所で行われた。 相ノ谷地区の諸相 相ノ谷地区ではそれぞれの集落でも共有の草山・野原はもたなかった。個人の山や畦畔に生えた草を 刈取りそれぞれ飼料にしていた。 風は二城山から谷に吹き降ろす場合と、谷底から二城山に吹き抜けていく場合が多い。 横脇では「どんべんひやし」という地名があるように、北西から南東にかけての寒風が吹く。 湧水は多いがそれほど水量が強くないものが多いので、乾田が多い。そのため麦の植付けをすること が多かった。 山に入ってはならない日が決められている。現在でもその決まりは守られている。1・5・9月の16日が その日である。月の名を冠して「しょうごうくがつ」とも呼ぶ。この日は山の神が木の本数を数えて いるから邪魔をしないため山に入らない、という伝承がある。この日に山に入ると怪我をするといわ れ、実際に違反して怪我をした人もいる。製材所など木材を扱う業者もその日は休業する。 明治10(1877)年の西南戦争の際には、相ノ谷地区からも女性が官軍にむすびなど売りに行ったという。 むすびにかえて なお、話者の菅原氏は民話・伝承、近代初頭の風俗など豊富な情報をお持ちである。 南関町史編纂委員による別途の再調査が是非必要だと思われる。 協力者一覧 荒牧大作(あらまきだいさく)さん 〔昭和2(1927)年生、馬立〕 荒牧ミノル(あらまきみのる)さん 〔昭和4(1929)年生、馬立〕 戸上哲太(とがみてつた)さん 〔昭和4(1929)年生、横脇〕 菅原千明(すがわらちあき)さん 〔大正14(1925)年生、清東寺〕 付図(別添) ----------------------------------------------------------------------------- 南関町 西豊永 12月19日実地 ◎一日の行動記録 9:40 出発 11:50 南関町役場到着 昼食 13:15 バス(巡回用)出発 13:45 西豊永到着 13:57 地誌調査委員浦野邸着 聞き取り調査 15:05 おはぎ、煮物を頂く 15:50 浦野邸 発 16:10 バス乗車 城跡見学 17:30 南関町出発 19:30 九大着 調査員:藤本 郷 星原 光太郎 (1)・小字の呼び方の違い 原(ハラ)→ ハル と話者がよんでいた。 ・しこ名 尋ねてみると、他の地域で使っているのを聞いたことはあるが自分た ちは使っていないとのことだった。そこで日常会話からしこ名を聞き 出そうとしたが、全部小字の名前通りに田んぼを呼んでいるらしかっ た。それでもどうにか聞き出したものを下に記す。 小字 受地のうちに ニシビラ(田) これは田んぼが段々になっており、ヒラヒラしている様に見えること からこう呼ばれているらしい。 小字 塔下のうちに 中塚山(ナカツカヤマ)(山) 昔、中塚城という城があったという小さい山。 小字 米田のうちに 花立 (ハナタテ)(交差点付近) これは村のほぼ中央に位置し、昔この十字路に茶屋があったらしい。 参勤交代のときにこの茶屋で休んでいたともいわれている。 小字 米田のうちに マツノシタ (ため池) 昔、このため池の近く(花立付近)に松の木があり、そのことから マツノシタと呼ばれているらしい。松の木はS17〜18年頃に枯れた。 小字 次郎丸のうちに タロウマル (地域) よくわからないがそう呼んでいる。 小字 次郎丸のうちに コヤシキ(地域) 昔、侍の住居が立ち並んでいることより生じた名前。 (2)水利、耕地 ・使用している用水 ため池、柴田川、村を流れる川 ・他の村との争い ほとんどなかったらしい。話者には争った記憶が無いようだった。 ・共通の決め事 雨が降らず、水が少ないときは上流の人も下流の人も均等に水が 分配されるように話し合いで決められているらしい。上田の水張 りを薄くして下田にも同じくらい水が流れるようにした。水が無 い場合も質問したが、その時は枯れるだけだということだった。 ・乾田、湿田について 山陰や風通りの悪い所は出来が悪いとのこと。田んぼには政府に よって一等、二等、…十四等と順位がつけられるらしいが、一等 一等から十四等までの田んぼがあるらしい。 つまり、乾田湿田が入り交じってあるということだ。 ・肥料について 昔は、人糞や牛の糞を使っていた。その牛に食べさせてやる餌は 芋の皮や穀類の屑等をかやや草に混ぜていた。よってごみが少な く、リサイクルされていた。S10年以降化学肥料が入ってきた。 ・まき、ガスについて まきをとる山は大抵決まっていたらしい。S26〜28年頃からガス が使われ始めた。当時はボンベまるひとつ買っていたらしい。 全般的に普及したのはS35年頃だという。 (3)村の道 ・学校道 村には昔、三つの小学校があった。一つは安原付近にあり、 話者はそこに通っていたとのことだった。中学になると西豊永 の西方に歩いて通ったらしい。その道は山道で、現在使われて いない。今はS6,7年に新しく作られた高久野反田線が主流にな っている。 ・運ばれた物 西から旧道(学校道)を通って魚が運ばれていたらしい。 (4)米の保存法 明治、大正時代はタワラに保存していた。その後かます(口入) へと変わり、次に藁の袋に入れるようになった。そして現在に至 る。また、米は秋の収穫が終わってすぐに売っていたとのこと。 (5)村の過去 南関町はS30年頃八ヶ町が合併してできた町だということだった。 西豊永地区は昔安原(アンノハル)と呼ばれていたらしい。村は 豪族が支配していた。また、田んぼは秋の収穫が終わると11〜12 に麦を作り、6月に収穫し、6〜10月に米を作っていたらしい。 そういうふうになんとか収入を増やそうと努力していた。恋愛に ついても質問した。村人はみな、自分たちの仕事に忙しく、時間 が無いため、恋愛はほとんどしなかったらしい。とはいえ、多少 興味があったと思うが、あまり顔も合わせていないためそういう 気持ちも起きにくかったのだろう。村人のほとんどがお見合い結 婚とのことだった。 (6)村のこれから やはり後継者問題が一番の悩みのようであった。話者の一人は子 供に無理矢理農家にさせたと言っておられたが、今ではその子供 さんにいろいろと文句をいわれるらしい。農家という仕事は大変 厳しい職業だからと話者は語ってくれた。天候にも左右され、丁 寧に世話をしないとすぐに無に帰ってしまうのが農業だと感じた 。大変な職業だと思う。更に現在政府による課税が更に農家を苦 しめている。ビニールハウス一つ一つに税金が課されるらしい。 今では村の中で専業農家をされている家は三軒ほどしかない。他 の人は会社に行きながら農業をしているとのことだった。また、 若者が村にいないため、どんどん農家は減り続けているらしい。 話者の方もこれはどうしようもないといったような感じで話され た。 結局の所、政府が農家を保護しなければ、苦しい職業だけに後継 者は出て来ず、減少する一方であると言う。何にしろあまり、明 るい話題は無い様であった。 (感想) 今回、参加して本当によかったと思った。西豊永で会った三人の方々 は大変親切にしてくださったし、様々な貴重な話を生で聞くことがで きた。特におはぎを食べながら聞いた戦争の話は今でもはっきりと覚 えている。一瞬寒気がするほどだったので太平洋戦争のことを考える たびに必ず頭に浮かんでくる。実際に体験した人の話はやはり違うな と思った。実際に現地に行き、現地の人から情報を集めると、机上で は分からなかった村の人達の心が感じられて楽しかった。歩いていっ て見て触れる大切さを知ったような気がした。 --------------------------------------------------------------------------------