無断転載を禁ず Reprint without permission is forbidden. ---------------------------------------------服部英雄のホームページ ミャットさんの記録(原英文と日本訳)
ドクター・フラ・ミン・ミャッさんの記録 ビルマ人学生の冒険の旅
先の1941年から1945年までの大東亜戦争中、ビルマは1942年の5月から日本帝国陸軍 の占領下にありました。日本政府は大東亜共栄圏構想のもとに、東アジアからの若者たち を教育及び訓練する目的で引き受けました。ビルマ政府は民間から2グループ、軍関係か ら2グループの奨学生を1943年から日本へ送り出しました。私は日本での勉強に向けて 選ばれた民間奨学生第二グループ30名の内の一人でした。奨学生の選抜はビルマと日本 双方の教育担当部署によってなされました。ラングーン大学の合格基準が選考に必要な最 低限の条件とされました。当時私はグループ最年少の17歳で、ラングーン医科大学での 授業初日のまさにその日に選ばれたのでした。 私たちは軍補助的な一団として結成され、基礎的な訓練と日本語と日本歴史の基礎知識を 学びました。これを行ったのは日本人民間行政官の、奥村、高田、平松、中島そして大沢 氏の面々でした。準備期間は3か月にも渡り、出発の前夜には日本大使澤田廉三氏とビル マのバー・モウ首相からのもてなしを受け、励ましやアドバイスの言葉をもらいました。 私たちは1944年4月11日に平松、中島、大沢氏らと共に列車でビルマを発ちました。そ の頃までにはイギリス空軍の動きが再び活発になっていました。ビルマ南部の最初の停車 地の町で、夜私たちは持続的な空襲を受けました。その夜の殆どを地下の防空壕で過ごし た後、朝になって旅を続けました。 私たちは2両の貨物車に乗り、かの悪名高い泰緬鉄道、いわゆる死者の鉄道で移動しまし た。その地区は深い森の山々を通るため厳しく、熱帯病も流行っていました。線路と車両 はいろんな場所から廃品回収されたものでしたし、装備も必要最小限のものでした。一度イギリス空軍による機銃掃射も受けましたが、それを切り抜け無事バンコクに到着しました。 戦禍にさらされてない国を見るのは不思議な感じを受けると同時に喜びでもありました。 私たちは2等客車に乗り、マレー半島からシンガポールへと鉄道の旅を続けました。シン ガポールからは海路を取ることになっていました。私たちは以前フランスの定期船だった 「テリツ丸」(原文通り、てんりつ丸か)に、マレー、ジャワ、スマトラ、セレベスからの学生たちと一緒に乗り込みました。数人の兵士が小さな白い箱と共に乗船してきましたが、それは戦死した兵士たちの遺灰の入った壺だと知りました。私たちは5月21日の夜、護衛として4隻の駆逐艦と1隻の航空母艦を含む、12隻の艦隊で出港しました。ここからが一番危険な行程となりました。アメリカ海軍が進路を封鎖しようとしていたためです。前回は、アメリカの潜水艦のせいで、数人のビルマ人学生と領事館関係者の人たちが南シナ海に沈んだと聞いていました。 私たちは船上で歩哨に立たなければなりませんでした。護衛の駆逐艦が水中爆雷を発射し た時には、数回爆発音と警戒警報を聞きました。しかし機体の故障で一機の戦闘機を失っ た以外は深刻な事態は何もありませんでした。私たちは九州北部の門司に1944年の6月8 日に到着しました。そして自分たちの荷物を持って下船し、日本の旅館に泊まりました。 私たちは突然戦時中の日本の厳しい現実をつきつけられました。農業国から来たために、 私たちは厳しい食糧配給制度(配給)が信じられず、理解もできませんでした。それはそ れとして、私たちは再び下関を通って東京へと列車の旅を続け、約24時間かかって、1944 年6月10日に到着しました。私たちは神田猿楽町に仮住まいをし、1944年7月9日に東 京近郊の吉祥寺にビルマの国鳥にちなんでピーコック・ホール「孔雀寮」という名の寮が 完成した後、そこに移りました。 私たちは国際学友会の日本語学校に他のアジア人学生と一緒に通いました。学友会は東京の中目黒にありました。校長は退役大将の飯田氏で、最高責任者は村上氏でした。 私が思い出せる先生方は、菊池先生、犬竹先生、山田先生です。授業は週6日あり、私は 一生懸命勉強し、楽しく過ごしました。 夏(8,9月)には4週間程学校は新潟へ移動しました。私たちは温泉のある素敵な、絵の ように美しい日本旅館に滞在しました。一番嬉しかったことは、忘れもしませんが、配給 基準が緩やかなせいか、近隣の村の多くの食堂で食事を十分に取れたことです。私たちは ちょうど日本全土が困難な状況が増してひどく苦しんでる中で勉強を続けました。私たち は日本の戦況が不利なことを感じ取ったり、想像を廻らしたりしました。一度などはマリ アナ諸島サイパン陥落のために静かに祈りをささげたこともありました。 1944年12月になると東京の上空に白い飛行機雲を伴った大きな銀色に輝くアメリカ軍 の爆撃機を見かけるようになってきました。それは次第に頻度を増し、1945年の3月東京 は壊滅的な焼夷弾爆撃に晒されました。私たちには影響はなかったけれども、私たちは意 気消沈して東京の夜空の強烈な光と渦巻く煙を見ていました。 私たちは、3月末にその学校での最終試験を終えました。そして1945年4月に10名の ビルマ人学生が福岡高校へやってきました。東京から来る途中で、広島駅でちょうど京都 大学へ行こうとしている4人のビルマ人学生と会いました。その時は、彼等4人がいかに 運が良かったかは知る由もありませんでした。福岡では2階建ての日本家屋で、アジアの 他の国からの学生達と一緒に生活しました。私たちは路面電車で学校へ通いましたが、そ の電車は大抵11か12歳くらいの女学生が運転していました。 *注記:男子は軍事工場に徴用されていたからであろう。 わたしたちは全員が科学を学び、他に日本語、英語、ドイツ語、物理、化学、数学、 動物学、植物学からなるカリキュラムがありました。学校は主にアジアの外国人学生のた めに運営されていたようです。なぜなら日本の学生はあまり見かけなかったからです。実 際に見かけた日本人は色々な程度の身体に障害のある人たち数人位で、健康な人の大部分 は当然戦地に行っているのだと、思いました。 1970年から1980年代に流行していた高価なジーンズは、所々擦り切れたり破れたりして いるストーンウォシュでした。この流行が何十年も前の日本の高校生達のファッションだ と、人々は知っていたでしょうか。 私はその当時の先生達をはっきりとは覚えていません。大抵の先生は中年の方でしたが、 体育の先生は若く見えました。彼は左右の足の長さに差があり、少し片足を引きずって歩 いていました。他には残念ながら、名前を覚えているのは田中先生だけです。田中先生は トーマス ハーディの「カスターブリッジの市長」という本を教材に使い、昼食時は英会 話の練習のためといって私たちと一緒に過ごしていました。 *注記:昭和16年9月から21年3月まで福岡高校にいた田中清太郎教授のち学習院大学名誉教授 1945年6月19日の夜、アメリカ空軍が福岡に焼夷弾爆撃をしてきました。私たちの宿 舎は焼けてしまいました。私たちは避難してどうにか港まで逃げて行き、そこで海に飛び 込みました。その時仲間は5人いたのですが、そのうち2人は泳げなくて、助けてあげな ければなりませんでした。そして、半分水につかりながら、岸壁の鉄の輪やもやい綱につか まっていました。爆弾の焼けた残骸がまだ燃えながら海にうかんでいたので、それが寄っ てこないように水をかけ続けなければなりませんでした。 朝になって集合してみると、全ての学生も職員も無事だと分かってほっとしました。私 た ちは学生寮(*学而寮・南寮のはずである)に移りました。そこはしばらく空き家になっ ていたので、ひどい状態でした。私は火事で全てを失いました。当局は服や本を支給して くれたりして、出来るだけの援助をしてくれました。日本の他の地区の仲間達が服を寄付 してくれ、京都の学生たちがそれを届けに来てくれました。 (*「さようなら六本松」に述べたように、同様にマレーシア人では京都からシャエラン シァが救援にきている。ビルマ留学生間でも京都帝大から支援があった。) また以前のように勉強を続け、たまに日曜日に食料を調達しに近くの村へと出かけまし た。その頃にはアメリカ軍の戦闘機は福岡や近辺の鉄道を攻撃し続けていました。 そして、大変ショックなことが起こったのです。1945年8月6日と9日にそれぞれ広島と 長崎に落とされた原爆の結果、その被害および犠牲者のニュースは恐ろしくて、壊滅的な ものでした。それは社会規範からの重大な離脱でした。私たちは爆弾がどんなタイプで、 どんな性質のものかも知りませんでした。パラシュート爆弾と聞いていました。一般の人 たちは閃光火傷に対しては防空豪の中で、濡れた毛布か布団をかぶって身を守れと言われ ていました。噂が飛び交っていました。祖国を最後まで守り抜くと言う人たちもいれば、 平和を求めると言う人たちもいました1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送を聞くよう に言われました。舎監の先生と私たち皆は座ってその放送を聞きました。放送は幾分かん 高い声で、古風な宮廷用語で話されました。職員の人達は聞きながら泣いて肩を震わせて いました。私たちはおおまかな事しか分からず、舎監の先生がきちんと説明してくれまし た。舎監の先生は親切の権化みたいな人でした。私たちを励まして、出来るだけ普段通り に生活し、元気を出すようにと言ってくれました。そしてあのひどい耐久生活の中、私た ち1人1人にビールの大瓶2本を何とか都合を付けて配ってくれました。 私たちは東京に呼び戻され、上京途中で広島の惨状を目撃しました。ビルマの学生達はみな 無事でしたが、広島で勉学中のマレーシアの生徒につては悲しい知らせを聞きました。ア メリカ占領軍当局は私たちを同盟国の捕虜として、祖国に送還する手続きをしました。私 たちは1945年9月最後の週にマニラに向けてアメリカの船で東京を離れました。それ からイギリス政府がシンガポール経由でビルマに変える手はずを整えてくれました。私た ちは1945年10月最後の週にラングーンに到着しました。 このようにして私達の冒険の旅は終わりました。 最善を尽くして、私たちを世話してくれ、全ての費用を賄ってくれた日本政府に感謝して います。私は戦争中の最後の2年間は、みなさんの困難や苦しみを見ましたし、分ち合い もしました。日本の愛国心や禁欲的な忍耐は素晴らしいものだし、賞賛に値します。 思いがけず、私は「六本松さよなら」を言うためにここに来ました。しかし、どこにあっ ても、この大学は来るべき多くの世代の人々に高水準の教育を提供し続けて行く事でしょ う。