□とした字は上が龍、下が共 (無断転載はおやめください) 平安時代のチャイナタウン--------------------服部英雄 九州の海岸部にトウボウという地名がある。福岡県では、宗像郡津屋崎町、福岡市西区 姪浜など、佐賀県では唐津市、長崎県には松浦市大崎、口之津町、長崎市矢上にある。鹿 児島県西・南海岸には川内市五代町、加世田市別府ほかがある。いずれも海の近くにしか ない。唐房(唐坊、当方などと書く)はチャイナタウンに由来する地名だ。津屋崎小学校 には、発掘成果に基づく唐坊跡展示館がある。 昨年、福岡市立博物館で開催されたチャイナタウン展に強い印象を受けた。各時代に博 多、長崎、琉球、横浜等で中国人街が建設された。博多湾一帯には平安時代に「唐房」が あった。 中国浙江省の寧波(ニンポウ)は大陸東端の港で、日本への玄関だった。ここに太宰府 や博多津にいた中国人が郷里の寺院に道路建設費を寄付した記念碑がある。乾道三年(一 一六七)とあり、日本年号では仁安二年に該当し、平清盛の全盛期であった。現在も華僑 は郷里・大陸の一族にせっせと利益を送金するが、当時も同じか。 「唐房」という言葉は日本の文献にみえている。禅宗は中国仏教である。それを日本に 伝えた栄西は、二度中国に渡っている。最近、栄西の入唐縁起が学界に紹介された。栄西 はおなじ仁安二年鎮西に行き、宇佐や阿蘇山で修行、よく三年二月に博多の「唐房」に行 き、四月に中国(宋)に向けて出発した。この間に唐房宋人から、語学研修を受けた。 博多にならび箱崎にも唐房(大唐街)があった。明の時代の日本ガイドブックに「箱崎 は、博多津のひさしの先で、そこに大唐街がある」とある。当時石堂川(御笠川)はいま の位置になく、博多も箱崎も地続きだった。日宋貿易といえば博多を考えるが、箱崎の役 割も大きい。大韓民国全羅南道、新安(シネ)という海から沈没船が引き上げられた。中 国大陸を出た船が嵐で朝鮮半島にまで流され沈没した。荷札には「筥崎」、「釣寂庵」(博多 承天寺の塔頭)、「至治参年」(一三二三)などとあった。博多の禅宗寺院と並び、箱崎が重 要な役割をはたしている。 建保六年(一二一八)ごろの箱崎宮には「宋人御皆免田」が二十六町も設定されており、 ふつうの年貢は免除されたが、代わりに高価な大唐絹を納めた。箱崎にはこんなに広い田 はない。各地の田を宋人にあてがい、国産絹五倍の値段の大唐絹を納めさせた。 瓦軒先の模様は日本なら三つ巴とか家紋だが、中国人は花(おそらく牡丹)の模様を好 んだ。花模様の瓦(花文瓦)は中国にしかみられないが、それが博多およびこの箱崎から 出土する。宋人が箱崎に住んでいたことの証左である。 博多湾外交に力があったのは比叡山延暦寺で、その出先が大宰府後方、大山寺(宝満山 麓)、そして箱崎神宮寺で、ふたつの寺は兄弟寺院だった(当時神仏混交で箱崎に寺もあっ た)。唐房の名が見える最初の史料・永久四年(一一一六)の経巻奥書に、「博多津唐房の 大山船□三郎船頭房」とある。三郎という名は日本にも中国にもある。□という字は日本 人の名前には使われない。かれは宋人で、唐房に住み、大山寺の管理下にあった。また経 巻を伝えた西教寺は比叡山のふもとの坂本にあって、延暦寺の一部といえる。 博多湾岸で活動を開始した栄西に対し、猛烈な妨害をした人物が箱崎の良弁や比叡山勢力 であった。朝廷は栄西の禅宗禁止の宣旨を出し、抵抗した栄西は『興禅護国論』を書いた。 背景に貿易をめぐる利権争いもあった。中国の生糸を日本に運べば二十倍以上の値で売れ た。箱崎大夫則重の祖父貞重が博多にいた宋人金貸しから大金を借りた話が、『今昔物語』 に見える。大山寺船頭、宋人の張光安が箱崎寺僧に殺されるという事件もあった。利権を めぐる内部抗争で、まるでマフィアの世界である。 箱崎宮は朝廷直轄の神社だった。貿易拠点だったからである。刀伊入寇や文永の役ではま っさきに攻撃目標となった。いっぽう博多は平清盛ら新興貴族勢力の拠点であった。いわ ば箱崎が国営港湾なら博多津は民営港湾で、民営の方が栄えた。 鎌倉時代になって博多湾周辺に禅宗寺院がつぎつぎに開かれた。禅宗は鎌倉幕府と直結し て、旧勢力のもとから貿易の利権を奪い取ろうとしていった。 博多湾の良港、姪浜には、「当方」(唐房)町があるが、近くには渡宋僧の南浦紹明が開い た禅宗寺院興徳寺がある。さらに今は内陸化しているが、姪浜と下山門の境付近に「今東 方」(下山門)・「稲当方」(姪浜)という小字が存在した。ビル・住宅ばかりだが、調べて みたら、ここに隣接して小字「舟倉」「古川」があることもわかった。舟倉地名がわかった ときは、自分ながら小躍りするほどうれしかった。一帯を発掘調査した福岡市の山崎純男 氏は「どうしてこんなところからたくさんの越州窯青磁(中国産)がでるのか不思議に思 った」といっていた。旧海岸線も確認された。今東方はまちがいなく今唐房、すなわちニ ューチャイナタウンの存在を示す。各地の唐房は相互に本店・支店の関係にあったが、同 時に博多湾内に新旧の唐房があったことは、利権をめぐる新旧の対立を暗示する。