服部英雄のホームページ

『蒙古襲来』補注、正誤・コメント

正誤訂正 23頁うしろ6行 明州長官→慶元軍府事 23頁うしろ4行 それは日本の国主・貴臣のものだとされている→ それは主君や貴臣のものだとされている 50頁7行目に追加  『宮寺縁事抄』は『大日本古文書』にも収録されて古くより知られている。ただし唐坊の唐の字 は、「と」がまえ(戸)のなかに占という文字として作字され、「店」とされていたため、唐坊とは認識 されていなかった。 52頁左2行「唐坊地」→唐防地 71頁右5行寺院名に唐坊寺→寺院名に唐防寺 136頁9行 (誤)二メートル二〇センチ→(正)一メートル九〇センチ 145頁最終二行 沖には敵船―――→以下その文節削除 199頁 1行目 管軍上百戸が→所部が 203頁 1行目 (百戸)→削除 210頁3行目 256頁図5・29→256頁図5・28 231頁 4〜5行 高房→武房 301頁後ろから3行 少弐や→削除 誤りではないが是正した方がよい箇所 217頁うしろ4行目 方言→肥後言葉 235頁 3行目 式部丞の子(式部丞女子がーー)→式部丞(式部丞女子がーー)の子 260頁 最終行 「参考までに」以下の段落は268頁 後ろから二行*の注へ移動。 274頁 10行 文永の役において→(以下の節、削除) 189頁図版 能古島、生の松原、志賀島→位置がずれているので、下方にずらす 451頁うしろ6行 勧修寺小路→勘解由小路 126頁うしろ3行目(他の箇所も同様) 関わらず→かかわらず 149頁6行 「仰去月」→「抑去月」  376頁左7行 半世紀後→一世紀半後 430頁うしろ6行 壬務→壬生 444頁うしろ5行 弘安四年(以下)→上から2文字目まで上げる 447頁右2行:「汎海小録」の録にあるアスタリスク→削除 ーーー▲は3刷りにて訂正ーーーーーーーーーー ▲152 頁うしろ7行Beech head→Beach head ▲238頁うしろ3行目〜次頁4行 草摺は通常〜絵詞にはこれと基調を一にする →この一枚の草摺は脇楯(わいたて)である。完全な軍装ではなく小具足と呼ばれる略 式の武装で、左籠手を着ける。小具足は鎧着用の準備段階で、このあとに大鎧を着て、完 全な軍装になった。ただよく見ると草摺には斜めの線が二本認められる。小札(こざね・ 長方形)の集合体である鎧の上に斜線はありえない。向かって右側、かれの袴(左足)に も二本の斜線がある。よって八郎は当初は通有に同じく直垂だったが、脇楯着用(半軍装) に変更し、季長や左にいる大鎧の武者と合わせている。絵詞にはこれと基調を一にする ▲243頁4行河野八郎^ように→削除 ▲248頁6行宋船→宋船・元船 ▲248頁7行宋船→元船 ▲248頁10行准構造船→準構造船 ▲268頁3行 図5−30→図5−31 ▲386頁6行目 『勘仲記』五日記事の早馬→『日記抄』五日記事の飛脚 ▲408頁うしろ3行海遊記→海遊録 ーーーー(▲◎は2刷にて訂正したもの)ーーーーーーーーー・ ▲◎382頁2行目〜 六月二十七日全軍鷹島(打可島)に移動→七月十日頃、江南軍到着全軍鷹島 →七月十日頃、江南軍鷹島到着→七月二十七日全軍鷹島(打可島)に集結 9行目 六月二十七日に一部が鷹島→七月二十七日に一部が鷹島 *本文198頁、398頁では正しく七月二十七日として記述しています。 ▲◎65頁地図 東方川→当方川 ーーーーーーーーーーーーー・ 以下は説明が不足で、よりわかりやすくするために、加筆したほうがよいと考える部分です。 40頁7行 栄西はこの街にて張寧たちと面会した。→ 張寧たちとも面会したにちがいない。 126頁うしろ3行目(他の箇所も同様) 関わらず→かかわらず 129頁うしろ3行 「況んや今、三百艘をや、何を以てか数を尽くして応副せん」 → 「況んや今、三百艘、何を以てか数を尽くして応副せんや」 書き下しはーーーによる 書き下しはーーーを参考にして、一部改めた。 145頁表3-1タイトル 文永11年10月20日前後の博多湾潮位 →文永11年10月20日前後の博多湾潮位を示す参考資料(当日に該当する月齢での潮位) 149頁5行『続群書類従』二六釈家部→『続群書類従』二六輯上釈家部 240頁 図5−13 注記がある。 →注記がある。継目右側に白旗を画き足したが、経年変化で劣化。 240頁 図5−14草摺→草摺(脇盾) 263頁 図5―34 弘安本→『北野天神縁起絵巻』弘安本 282頁 6行 口絵、図5・13→口絵、トル→図5・13 286頁 4行 前六紙で→前六紙(口絵、図5・40)で 288頁うしろ3行 手前後部→ 島津兵船手前後部 404頁末尾行 *を付ける。ポイントを落とす。 437頁 図8.11地図に鷹島の字を貼り込む 458頁2行冊封を受けること→事実上の服属を受け入れること 474頁 6行 ことがある。→ことがある(文化庁記念物課に昭和6年史蹟指定時の図面があり、地行西町 100分1横断図があった。それによると地行西町の防塁は一メートル五〇センチほどの高まりで、 旧海側(北)は道路に削られていた。指定時から石はなかった。おそらくさらに道路の拡幅があっ て、土塁も削られていたため、検出遺構がなかったのであろう)。 ーーーーーーーーーーーーー・ 以下○は説明が不足で加筆が望ましいと考える部分で、3刷りに当たって加筆したものです。 ○4頁6行文永十一年→文永十一年(傍注で一二七四) ○9頁2行五月三日→傍注で(弘安四・一二八一年)、 ○70頁三隅町中東方→70頁三隅町中東方(中・熊野神社には寛文三・一六六三年に出土した宋風獅子がある) ○118頁うしろ7行 以下に述べる→以下に述べる(132頁) ○386頁3行目 この三日後→第一報の三日後 ○404頁1行 能古島だ。→Aは能古島だ。 ○492頁うしろ4行粉飾した→本文書(原本)がほかにあると、粉飾した ○426頁うしろ5〜4行 (4)だから鷹島〜援用していた。竹島を →(4)であり、鷹島の鷹はzhuまたはzhuo音だから、竹のzhu音に同じ だった。達可島表記は日本語音から、竹島表記は中国語音からの表記となる。 竹島を ーーーーーーーーーーーーー・ 以下●は1刷にて説明が不足で加筆が望ましいと考え、2刷にて加筆したものです (口絵)菊池川河床遺跡より出土の中国陶磁器 →菊池川河床遺跡より表面採集された中国陶磁器 ●49頁図1-6 下方に「唐坊在家」→次次行下方に「唐坊在家」 ●56頁うしろ3行 設計思想→設計思想だが、隔壁自体きわめて頑丈であり、構造材でもあった。 ●61頁 筑前五ヶ浦廻船→大坂・江戸への廻船と、蝦夷地・奥羽地方より物産 を日本海航路にて運搬した。 ●70頁4行 四八〇頁)。いずれもーー いずれも以下は削除 →四八〇頁)。当房通、また益山には中国産石塔(薩摩塔)が残されている(橋 口亘「九州南部の薩摩塔・宋風獅子」『中国・寧波産石材の拡散 異文化の記 憶』(石造物研究会・二〇一四)。 ●85頁うしろ5行 鳥羽法皇皇后    →鳥羽上皇后 ●101頁うしろ2行なっている)。→なっている)。久保田収『神道史の研究』によれば金

剛三昧院本では巻一・奥書に永和元年・永享三年の、巻二奥書に嘉吉三年の記銘がある。 ●123頁7行 蒙古軍の数は→文永の役における蒙古軍の数は、 ▲143頁うしろ6行〜4行 「兵法にーーしまう」とー →「兵法にーしまう、とーー若かず」 ●152 頁 うしろ5行 切岸にて人為的に斜度を作り、投石効果をあげた。 ●153頁最終行立花山→立花山、青木山 ●159頁おわり2行 箱崎にも、→鳥飼にも、箱崎にも、 ●161頁5行 以西→両岸浜 ●194頁 長講堂領志賀島は天皇家領御厨 →長講堂領志賀島は天皇家御厨・能古島は住吉社御厨 ●195頁9行 ちがいなかった。――― →ちがいなかった。能古島については「能護嶋為御厨所領」(住吉神社所蔵文 書『平安遺文』一〇―六〇〇一)とみえて、那珂郡住吉荒魂社御厨とされてい た。志賀島・能古島を含んだ博多湾は「御厨海上」と呼ばれていた。 ●228頁うしろ6行 七紙以下を削除 →桜井清香『元寇と季長絵詞』(一九五七)は、東京国立博物館本模写に「有 高」とあると指摘する。 ●236頁うしろ6〜5行 に誤記はあるまい。→が誤記とは不自然だ。 ●266頁5行あり、→残されていて、 ●267頁うしろ5行  兵船。→兵船、 ●279頁行末 補遺・前二三〜二五紙の逃げる蒙古兵一名の左眼に矢が的中している。その矢 羽が本黒で、竹崎季長の箙に残る矢羽(本黒)と同じであること、すなわち絵 詞は季長が的中させたとしていることに、初刷責了後、気がついた。眼に的中 できたならば、静止状態からの射撃である。典型的な異時同図法で、跳ねる右 の馬は、新たに出現した三人の蒙古兵の攻撃に耐える時間帯のものであった。 以下、これを前提にすれば理解が容易であった。 ●284頁9行 滲みそのものが無関係だし→滲みは生じないし ●294頁6行 ようで→事実で ●305頁1行 盛宗→盛宗父子 ●312頁3行 第一→第一次 ●319頁5行 一族が→一族数名が ●321頁7行 ひくわんのかく(格、かた?)によて→ひくわんのかう(号か)によて ●321頁9行 「被官の格」と見なされていた。→被官と号したことが問題とされた。 ●333頁図 である。→である。西福寺石幢(『菊水 ●334頁うしろ7行 (前掲図→(口絵、前掲図   ●334頁うしろ4行 拓本→拓本、 ●351頁下段 日宋関係→日宋・日元関係 ●358頁うしろ4 。補遺→ 。は補遺 ●367頁5行 ポンコツ船だった。→<*この段落、前にて追い込む>ポンコツ船だった。 <ここで改行>。木枡も木桶も使ううちに水が漏れだす。木の板を貼り合わせ た船も次第に狂う。だから遠洋を行く軍船は新造船が原則で、老朽船だと漏水 が激しい。航海前にも航海中にも桧皮(マキハダ)を打って止水し、釘を打つ。 必然の漏水は桶により排水、目的地到着後、揚陸して釘を打ち直す。もしその 直前段階ならば、かろうじて浮いた状態である。台風進路、目の右側ではなく、 左側であったにもかかわらず、老朽船は沈んだ。 ●369頁 うしろ3行 推定→(トル)  *そのあとにも推定が重複 最終行 沈没船が→沈没船は ●371頁8行目 碇石は →碇石は、 ●388頁10行目 (地理上)。文政→(『同』地理)。同書文政 ◎392頁5行目 である。はたして→である(順風を得ても翌日)。はたして ●392頁10行 する。→する(緊急時に潮流や風向で不安定な航路を使うこと はない)。 ◎398頁3行 弩(投石具、いしゆみ)→弩(大型弓、クロスボー) ●404頁最終余白 初刷責了後、後巻巻末断簡二八紙、三一紙が六月八日合戦の情景であることに 気づいた。 ◎ 419頁5行 京都に伝わった。しかし同じく→京都に伝わった。けれど壱岐の蒙古陣営は維 持され、蒙古補給路を断つことはできなかった。同じく ●420頁後2行* 朔旦冬至との関係で章首の閏八月を避け →章首になって、最初にあたる閏八月を避け ●421頁3行 章が切り替わるーー朔旦冬至である。 →章が切り替わるーー朔旦冬至である。弘安元年が章首であった。 ◎ 426頁うしろ3行 鷹島を竹島とも書く日本文字表記を援用していた。→鷹島もzhuまたはzhuo  daoで竹島に同じ発音であったから、鷹島を竹島とも書く日本表記を援用した。 ●446頁うしろ2行 ルビ下げ ●470頁7行 投石機→投石具 ●506頁うしろ6行 複数人→複数人連記 なおメールで寄せられた書評があり、フェースブックで一部コメントしました。 かれは張成の地位(范文虎逃亡後に主帥となったこと)をふまえて東路軍・鷹 島合流の可能性を考えているようだった。わたしの考えは以下。六月以降博多湾 の攻防は、蒙古軍優勢とはいえ、博多制圧に至らず、膠着していた。志賀島は 二ヶ月をかけ要塞化が完成していた。志賀島を拠点に、江南軍の合流を得、壱 岐からの補給路以外に平戸・鷹島からの補給路も加える。志賀島からなら、防 塁のない粕屋郡・宗像郡の浜辺を攻撃できるし、刀伊がしたように同じく防塁 のない志摩郡・怡土郡から攻撃もできる。目的は大宰府・京都・鎌倉なのだから。 鷹島合流はよい作戦ではないし、そうした意図がなかったことは、戦後の伊万 里湾岸に石築地が築かれなかったことに明らかである。


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