202205 屋久島 黒味岳 宮之浦岳

一足前にゴクラクに行ってきた。ハスの花は咲いていなかったが、シャクナゲが花繚乱。あこがれの屋久島。 名峰黒味岳と宮之浦岳に登頂できました。 足が弱ってきて、階段も重い。もう山登りもおしまいだ。そう思ったらやたら屋久島にいきたくなった。 この季節は、毎年久住ばかりに夢中。しかし山登り人生、一度は屋久島シャクナゲをみたい。 今年がダメなら来年はもっとダメ。気象庁天気予報は3日連続晴れ。 気象予報協会の方も、最初の予報は雨だったが、晴れまたは曇りに。 なんとかフェリー上の人になった。 以下行動メモ 一番簡単な黒味岳往復という計画。遠がすみで視界は効かなかったが、宮之浦港入港直前、眼前に大きな山々。びっくり、感動します。 島原港からの雲仙よりも大きなマッスで山が海に迫ってくる。宮之浦港から安房(あんぼう)の合庁前バス停で乗り継ぎ。 料金をかんちがい。 すでに紀元杉行きのバスが待機。急かされる。 バスはぐんぐん上がる。タッチュウダケ(太忠岳)という岩峯。沖縄にも伊江タッチュウがあります。全く同様の尖峰。 途中でサル。運転手が親切な人で停車。乗客全員、といっても3人だけだけど、夢中で写メ。今の時期は赤ちゃんザルを抱いている。 運転手は花の解説もしてくれた。きれいに咲いているのは「サクラツツジ」。 紀元杉を見て登山口へ。林道にいっぱい駐車。天気は快晴で日曜日。みなここから宮之浦岳に往復するらしい。 注意看板に宮之浦岳からはおそくとも午後1時には下山を開始せよとあった。 登山届は当初黒味岳から石塚小屋へとしていたけど、あまりの重荷に体力・気力・足・膝も耐えられそうもない。 こころがわり。加筆して提出。 多くの人とすれちがう。途中小学生の元気な一行も。あとで聞いたが、たぶん八幡小学校の児童。欧米系の子も。黒味登山のかえり。 淀川(よどごー)小屋 きれいな川だけど、屋久島に淡水魚はいないらしい。ふしぎ。水中昆虫はいるはず。 宿泊の人たち、きょくたんに混んではいない。一階の奥にシュラフを置いた。 パックご飯がコッフェルに入らない。何度もくりかえしてきた失敗。 隣の声で目が覚める。前の日7時に寝た。3時にはぜったい起きるだろうと思っていたら、すでに外が明るい。 5時だ。しっぱい。隣以外は空っぽ。大あわてで朝飯とパッキング。隣よりも先には出た。急坂を登っていく。 途中で昨日テントを張っていた好青年にあった。あさ3時に出て黒味岳に登ってきたそうです。 前の日は篤志家しか登らない蛇之口の滝を経由する尾ノ間(おのあいだ)コースを登って、道が悪く、テープも曖昧で苦労したそうです。 倒木が放置されているらしい。 「サルはいっぱいいますよ、威嚇してくるから、こっちも手足をひろげて対抗した。」 体力は毎日鍛えているから十分あるそうです。でもとても大変で疲れ切ったという口振り。 この若者に共感・好感。一人であまり人が行かない山を歩いていた、むかしの自分をみたような気がした。 やがて展望台があって眼前に大きな山。聞いたら黒味岳だそうだ。片側がストーンと切れ落ちて、鋭角。 垂直ではなく抉れている。でも登れるとのこと、じっさい2時間後にはそこに立った。 あこがれの小花江河、続いて花江河(はなのえごう) そこからも黒味の頂上がみえる。池には小さな祠、屋久島も仏教らしい。 無事に極楽に行けますように、般若心経読誦。ジゴクはいやだから。 そこから黒味分かれは近かった。110番で携帯使えますとあった。 docomoの人は使っていたけど、自分はau、通じなかった。 そこから急坂。頂上で手を振っている人。下からこちらもポールを振る。やがておりてきた人が「さっき手を振ってくれましたね」、 「かっこよかったから」 山頂の岩のてっぺんまで行ける。だれもいないから記念撮影は断念。黒味頂上ではwifiが通じた。 まだ9時前、いけるところまで行って見よう。 岩が多くてところどころ、ロープ。投石平、シャクナゲが咲きみだれている。 次が投石岳、ピークには気づかず通過。栗尾岳、このあたりはあまりの美しさに、ひたすら感激。きてよかった。 この道沿いは水の流れが豊富。水筒はいらない。水を飲むのが大好きな自分向き。 やがて宮之浦岳まで1キロの表示。11時半、目の前に見えている。いくっきゃない。山頂到着は12時20分くらい。 永田岳方向にシャクナゲがかたまって咲いているところがみえる。 咲いていないところもある。 永田岳で遭難した中学の同級生・佐治くんのために、舎利礼文読誦。 頂上で昨夜小屋で隣だったといわれた。暗くてだれがいるのかわからなかったけど。 「自分たちが遅く出たのにどうして先に着いたかと思った」、といわれるから、「黒味に登ってきた」と答えた。 このグループに証拠写真を撮ってもらった。2度目の来島で屋久島は雨が多いので、前に来た時は雨、観光だけだったそうです。 深田久弥の日本百名山があって、若い時に半分以上は登った。まだテレビで有名になる前。その後、数は伸び悩み。 73歳にして一つ増えたぞ。78番目。 10年に一度の当たり年という説があるけど、そこまでの実感を強調している人はいなかった。 宮之浦岳と永田岳との間がきれいという人が複数いた。知っていてもそこまで行く元気はなかったでしょう。 叢生しているところの一部が10年に一度、という意味かな。 しゃくなげ。脊振にもきれいなところはあるけど、全山花盛りというところは記憶にありません。 ただ点景・遠景なので写真にはうまく撮れない。 人も多いし、山ではよくしゃべった。 今回、屋久島を去るという人たちがふたグループ。日帰り組の病院勤務の方。一年間滞在。 もう一組、テントの家族はカナダに行くらしい。 自由な考え、行動の夫婦らしく、いつもはだしの2歳の男の子が一緒、お腹にも赤ちゃんがいるそうです。 みんな屋久島が好きだといっていた。 三日目、夜中に雨が降ったらしい。気象予報協会の天気予報は当たった。小屋にガイドさん引率の一行、トイレに並ぶ。 トイレはバイオといううわさ、自分は世界遺産区域の内側では、大の方はがまんできた。 ガイドさんに佐治くんのことを聞いてみた。NHKで縄文杉より大きく古いスギを放映、それみて探しに入った人がいた。 永田登山道付近で遺体は見つかった。その人ではなかろうか。 下山後、名札にあった名前を検索したら、斎藤幸人さんらしい。前の日も山にいたという。 下山開始、日曜に船内にいた欧米系の老カップルとすれちがい、ことばを交わした。 巨木が林立する中のみちは、いかにも屋久島。 バスで下山、時間的には飛行機にもトッピーにも乗れそうだったけど、往路を辿る。 安房のバス停で待ち時間におあいした方。 「登ってきたの」、「はい」といったら拍手してくれた。若い時に子供を連れて黒味に登った。 「広い岩に登りましたか?」「はい」、「岳(だけ)参りありますよ。安房は明星岳に行く。私は行ったことはない。 春分と秋分(春秋の彼岸)だったかな」。(孫が九州工大、娘が鹿児島とか、話したあと)私は長崎、被爆者なんですよ。 2歳半だったけど、戸板に乗せられて爛れていた人のことは記憶がある。城山小学校では被爆者学級という特別のクラスだった。 爆心地から  メートル、防空壕にいた。その後どう親におぶわれたかの記憶はない。 また屋久島にきてくださいね。はい、ぜひ。

おくが黒味岳

水場周辺


トップページへ戻る

ーーーーーーーーーーー