服部英雄のホームページ
有明海という玄関・南蛮の援軍待った島原の乱
2003年から4年間この紙面を担当させていただいたが、今回で最後となる。わたし はもともと日本の中世村落に生活した、名もない人々の実像に迫ることに関心があって、 ライフワークとしてきた。だがこの間は中世のアジアと日本について考える機会があっ て、そうした観点からの執筆が多かった。 きっかけは有明海である。この学界には平安時代の九州と中国・宋の交易に関してひ とつの論争があった。長承二年(一一三三)、神埼庄領(神崎庄)に宋商人の船が到着 し、神埼庄を支配していた平忠盛(つまり平清盛の父)が貿易を行った(『長秋記』)。 この神埼庄とは有明海岸なのか、それとも博多なのか、それが論点である。神埼庄は肥 前国神埼郡にあった荘園である。だから神埼庄ならば肥前であって有明海であろう。博 多説では、飛地(倉敷、いわば出張所)が博多にあったというのだが、史料には「倉敷」 の字も「筑前」国神埼庄の表記もない。博多説は泥干潟の有明海に巨大なジャンク船(外 洋船)が入ることは不可能だという前提だ。しかし筑後川を忘れている。筑後川下流は 河川内でも干満差が大きく、常時水深がある。近代には汽船や軍艦が出入した。神埼庄 は筑後川に面しており、良港・蒲田津(神埼市千代田町)を持つ。河口にはほかに筑後 榎津(大川市)、肥前蓮池(佐賀市)、寺井津(諸富町)もあって、それらは明の書物、 『(ちゅう*たけかんむりに壽)海図編』(一五六一)に言奴気子イエンヌチィツゥ、法 司奴一計ファスヌイチィ、鉄来チェライと紹介されている。マカオで書かれた宣教師ジ ョアン・ロドリーゲスの『日本教会史』(一六二二)にも登場し、外国にまで知られた 良港だった。 わたしは久安四年(一一四七)に杵嶋庄から鳥羽法皇に孔雀が献上されたという仁和 寺の記録をみつけ、紹介した(一九九六)。杵嶋庄は肥前国杵嶋郡(今の白石町一帯)、 有明海・六角川河口の荘園である。孔雀は日本にいない。有明海に外国船が入ったこと は疑いない。 古代には菊池川流域菊池城、矢部川流域女山・ぞやま神籠石・こうごいし(瀬高町) をはじめ、有明海に注ぐ筑後川、嘉瀬川、六角川流域にそれぞれ朝鮮式山城(神籠石) が築かれた。白村江での敗戦(六六三・天智二年)による新羅・唐の逆襲、有明海侵入 に備え、百済人の技術によって律令国家が築いた大宰府南の防衛施設である。 有明海はアジアからの玄関であった。それを強く実感したのは原城の戦い(島原の乱、 一六三七〜三八)を考えたときである。 かねてから原城(南島原市南有馬町)の門が、海に向かって作られていることを不思 議に思っていた。大手門である日野江(樋ノ上)門をはじめ、田尻門、蓮池門(池尻門) はみな海に開口していた。もともと原城のあった有馬地方にはセミナリオもあった。ヨ ーロッパ文明は有馬地方から日本に入った。 島原の乱では原城に四万を越える人々が籠城する。指導者は何を考えていたのかを知 りたかった。籠城作戦は援軍を待つ。原城にやってくる援軍とはだれなのか。攻めた幕 府側が取った策から考えてみた。幕府はまず江戸城に参勤していた山形・荘内・松山・ 今治の大名に国元への帰国を命じている。「天草蜂起による不慮に備える」ためだった。 幕府は連動して各地にキリシタンの蜂起、内乱が起きると考えた。 山形・荘内とある。伊達政宗・支倉常長の仙台だけでなく、東北地方には信者が多か った。最近ローマ法王による日本人殉教者百八十八人の列福(福者に列すること)が報 道された。そのなかには一六二九年に米沢(山形県)で刑死したルイス甘糟右衛門ら五 十三人が含まれている。米沢が数では最多である。東北は一大拠点だった。 原城から日向延岡、つまり旧主有馬氏やその家臣、元信者多数がいる延岡に派遣された キリシタンが阿蘇山麓で捕まり、火あぶりにされている。落城後、薩摩で捕まり処刑さ れたリーダーもいる。原城から出て、各地信者への働きかけがあった。 つぎに幕府軍総大将松平信綱がオランダ船に命じて原城に大砲を撃ち込んだ意味を 考えた。信綱は「一揆のものどもはおっつけ南蛮から加勢がやってくるといっている。 その幻想を打ち砕く」といった。籠城していたキリシタンはイエズス会・カソリックで、 オランダはプロテスタントである。当時新教国オランダと旧教国ポルトガルは宗教戦争 をしており、島原の乱の最中にインドゴア沖の海戦があった。わたしは一揆軍が南蛮す なわちポルトガルの来援を期待したと考えた。各地の内乱と、つづくポルトガル(マカ オ)の援軍来航が一揆指導者の画く作戦だった。落城後、天草四郎の首は長崎のポルト ガル商館前に晒される。鎖国によって敵対国ポルトガルは排斥され、幕府に軍事協力し たオランダは、キリスト教国であるにも関わらず、通商を許された。 この考え(一九九八発表)はすぐには学界に受け入れられず、ありえないといわれた こともあるけれど、最近NHKで放映された「その時歴史が動いた」では、かなりの部 分が採用され、取材も受けた。くりかえし主張すればなんとか知られるようにはなる。 アジアの視点が歴史の読解には不可欠である。 歴史家のしごとは補助線を引くことだ。一本の補助線により、断片的な史料記述がつ ぎつぎにつながる。この間のそうした体験を、読者にもお伝えできたと思っている。