異国に残された巨大な日本城・倭城
                            服部英雄
 福岡から高速艇で3時間。そこはプサン(釜山)港である。いまから四〇〇
年も前のこと、この地域を日本人が占領し、軍事支配したことがあった。豊臣
秀吉による朝鮮侵略戦争、文禄慶長の役である。釜山周辺、慶尚南道の沿海部、
そして全羅南道の一部には、当時秀吉軍が築いた城がいくつもある。その巨大
な城跡が今も藪のなか、木立の中に残されている。日本城である。韓国の人々
はいくぶん侮蔑の意味も込めて、これを倭城と呼んでいる。
 プサンでは港のある湾(プサン湾)からはるか西、洛東江の河口西に新港を
建設中である。この海こそが鎮海湾である。広かった海も埋め立て中で、やが
てはJRビートルも、韓国鉄道コビーも、この新港から発着するのだという。
プサン港しか知らない我われには意外だが、対馬からの海流でいえば、実はこ
の新港の海に入る方が潮に乗りやすく容易だった。いわれてみれば思い当たる。
中世(室町時代)の日本人にとって、最重要港湾は三浦(サンポ)と呼ばれた
熊川薺浦・釜山浦・蔚山塩浦である。日本人街が形成されていた。そのうちの
薺浦(チェポ)が鎮海湾にあった。
 洛東河の西、南は加徳島、巨済島、西は固城半島に囲まれる内海、すなわち
鎮海湾こそが、秀吉水軍の根拠地であった。大村湾よりやや小さいこの海が、
要塞の海だった。李舜臣将軍率いる朝鮮水軍との争奪戦も行われた。この鎮海
湾岸にはいくつもの倭城が築かれた。本土には安骨浦(アンゴルポ)城、熊川
(ウンチョン)城、その支城明洞(ミョンドン)城、同子馬城、馬山(マサン)
城、固城(コソン)、巨済島(コジェド)には永登浦(ヨンドンポ)城、松眞浦
(ソンジンポ)城、長木浦(チャグモンポ)城、徳湖里(トッコリ)城(これ
まで見乃梁城とか倭城洞城といわれてきたもの)、加徳島には加徳(カトック)
城などである。それぞれの城に九州中国地方をはじめとする諸大名が入城した。
湾内の四周をこれらが固め、かりに敵船が来航しても上陸を不可能にする布陣
であった。むろん相互に狼煙(烽燧)・飛船で連絡を取った。
 当然顕彰はされないけれど、これらは多く良好な状態で保存されている。蔦
カズラにからまり、埋まりつつも、巨大な城壁がいまも忘れられたように眠っ
ている。訪れた日本人にはまるで熊本城や福岡城が藪の中に放置されているよ
うに写る。ほか倭城は鎮海湾から西へ順天までに三つ、洛東江を遡って六つ、
東海岸沿いに蔚山までに四つが確認される。
 わたしはたびたびこれらの倭城を訪れる機会を得た。訪れるたびに新鮮な気
持ちになる。アンゴルポ(安骨浦)倭城には二度訪れたが、一度目はその全体
を見ることはなかった。大きさに気づかなかったのだ。三韓時代の古港の遺跡
も残る安骨浦の港町から、後ろの丘に登る。そこはもう城跡の一角である。石
垣が見え始めると山頂の曲輪(かりに第一本丸)で、草も刈られていた。ここ
からは西側の海がよく見える。そこよりなお北に進むとカズラに覆われた一角
に出る。石垣で囲まれた最大の平坦地、中心の曲輪である。仮に第二本丸とす
る。ここには大きな櫓台があった。天守閣があったのだろう。東側の海がよく
見える。石垣は二段にも三段にもなって下に続いていく。はじめてきたときは
静かな海で、麓には村もあったが、今回は、海は埋め立て工事の最中で、大き
なダンプが行き交う。下の村もどこに行ったのかよく見えなかった。もしまた
来訪できるのなら、巨大な工場地帯になっていよう。
 旗竿石があった。旗を立てる土台石で、佐賀県の名護屋城周辺陣跡にも、こ
の旗竿石をいくつもみる。吹き流しや紋のついた旗が立っていた。海との連絡
に旗による信号が必要だったとも考えられる。
 さらにここから北に進むとまた巨大な一角がある。一度目にきた時はその存
在に全く気がつかなかった。かりに第三本丸と名付けよう。やはり巨大な石垣
があるが、痛みも激しい。山麓からまっすぐに登ってくる長大な塁(石塁・土
塁)があって、登り石垣と呼んでいる。この登り石垣は先の第一本丸よりもさ
らに南にも、もう一本ある。南北二本の登り石垣が、三つの本丸を持つ巨大な
城の防衛線であり、海に向かう西側斜面を包囲している。
 倭城の特色の多くは港近くにある山を取り込んで、港そして山を全て城郭化
するところにある。このため登り石垣が必要だった。日本国内の城にはない厳
しさを感じる。石垣の塁線から一歩出ればそこは敵地だったのだ。
 こうした登り石垣は、近くの熊川倭城にも顕著なものがあって、なかなかに
壮観である。その遺構は豊臣軍が抱いたであろう恐怖感をも如実に示す。三つ
も本丸があることは、三大名がひとつの城に退却してきたことを意味しようか。
 倭城にはしばしば瓦の散布を見る。瓦は朝鮮で焼かれたものだ。散布する土
器も同じである。朝鮮の技術者に大量に焼かせた瓦が、日本城の天守閣の屋根
にあった。ずいぶんエキゾチックであっただろう。それはその後の日本国内の
天守閣にも継承される。熊本城や姫路城には滴水瓦と呼ばれる三角形の大陸風
の軒先瓦が使われている。朝鮮半島で流行したものを日本に輸入した。倭城は
日朝折衷様式の城であった。
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 ちなみに時代が下って日露戦争・日本海海戦に旗艦三笠以下の連合艦隊はこ
の鎮海湾から出撃した。いまは韓国海軍最大の軍港鎮海港があって、潜水艦が
行き来する。この海の持つ役割は重要さを増すばかりのようだ。


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