毎日新聞・福岡城に天守閣はあったのか?           服部英雄

福岡市立博物館で、福岡築城400年記念「黒田家」展が開催されている。
充実した内容で、わたしなどは見終わったら、いつしか4時間が経過して
いた。ただひとつだけ腑に落ちなかったのは最後のコーナーで、コンピュ
ーターグラフィックスによる福岡城天守閣の復原映像が流されていたこと
である。見学者は一様に福岡城には五層の天守閣が建っていたと思われた
ことであろう。わが町の城に天守閣がなかったというよりは、あったとし
た方が話としては楽しい。しかしそれと史実は別である。
長い間、福岡城には天守閣は建てられなかったと考えられてきた。『福岡県
史』通史編「福岡藩」(一九九八)にもそう書かれている。黒田如水は合理
的な考えをもち、以後の時代には天守は不要であるとして建てなかったとい
うのである。ところが最近になって熊本細川藩の史料に、福岡城に天守があ
ったかのように読みうる記事が見つかった。黒田藩側の史料にも天守のこと
ばがある。それで俄然、天守存在論が浮上してきたのである。
しかしそれを文字通りに受け取ることはできない。結論を先にいえば、福岡
城大天守は建てられなかったが、天守台の近く、小天守台、中天守台と呼ば
れた場所に二層(*三層に訂正したい)ほどの櫓が建てられた。この櫓は幕
府向けには「御天守台廻<まわ>りの御矢倉(櫓)」といわれていたが、福岡
藩内では天守と呼んだと考えられる。*寛永十二年(一六三五)に福岡地方
を大きな台風が襲った。箱崎松原の大木が二〇〇〇本も倒れた。福岡城の櫓
も大破しただろう。しばらくは持ちこたえていたが、寛永十五年(一六三八)
に取り壊された。この経過についての古文書は檜垣元吉『近世北部九州諸藩
史の研究』にみえる。ほか樋井川の土手が切れた状態と、その段階ですでに
取り壊された別の「先年の矢倉跡」四棟を示した絵図も九州文化史研究所に
ある。黒田家の史料にも細川家の史料にも、たしかに「天守」という文字は
見えるが、じつはこの代用「天守」のことをいうのである。大天守台そのも
のには明和二年(一七六五)まで蔵が建てられていた(九州大学檜垣文庫古
文書)。その後、この中・小天守は再建されなかったが、石垣だけは「小天守
台」石垣のように呼ばれて修理され続けた。いつしか天守台北西の櫓が「天
守櫓」といわれるようになり、これが天守代用とされて幕末を迎えた。
さて以上の考えを立証してくれるものの第一は、正保三年(一六四六)福
博惣図に描かれた福岡城の詳細な図面である。この絵図は縦三メートル、
横五メートルと大きく、開くことがたいへんだから、ふつうは見ることは
できない。しかし幸いにも今は「黒田家」展に展示されている。「天守台」
と表記されたそのすぐ東隣に「矢蔵跡」と注記されている。小・中天守台
の位置である。これは寛永十五年の取り壊し後の姿を示している。もちろ
ん「天守跡」とは書かれていない。大天守は初めからなかったから「天守
台」としか書かれなかった。
さて大天守があったと主張する人も、正保段階に天守がなかったことは認
めている。するとせっかく建てた天守を三十年ほどで取り壊したことにな
る。いかに封建時代とはいっても、年貢を絞りとられる領民としては耐え
られない。領主の権威も失墜である。本当にそんな馬鹿なことをしたのだ
ろうか。そこにでてくるのが幕府の威光を恐れて取り壊した、という説明
である。
司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、伊賀・上野城は天守を建設中、ほと
完成していたが、徳川の意向を推し量った藤堂高虎が自ら取り壊したと書
いている。あまりに不自然なので調べてみたら、慶長十七年(一六一二)
九月に台風がきて、おおかた完成していた天守が倒壊し、百八十人が死亡
したことがわかった。これでは工事の続行はできなかった。天守取り壊し
の真相である。
天守取り壊しがほんとうに幕府に迎合するものだったのならば、諸藩も率
先して壊しただろう。毛利氏の萩城、浅野氏の広島城、加藤氏の熊本城--み
な豊臣恩顧・外様であって、幕府に迎合しなければ延命できない大名ばか
り。しかしいずれも明治まで天守は残っていた。加藤の場合は実際に取り
つぶされてもいる。それでもかれらは天守を取り壊さなかった。天守は建
てるのもたいへんだが、壊すことも簡単にはできない代物だった。
福岡藩は天守を建てる意志がないのに、なぜあのような巨大な天守台だけ
を作ったのか。その疑問には次のように答えたい。途中で予算がなくなっ
て、天守を建てられなくなった。もう少し丁寧にいえば、残った予算と天
守の価値とのバランスを考慮したのである。しかし金がないでは格好が付
かない。そこで持ち出された理屈が「将軍家への遠慮」だった。そういえ
ば天守積極建築派も含めてみな納得した。皮肉なことに後世の人までもが、
この考えにしたがった。
中天守台石垣の方が小天守台より一段高い。仮にともに二層でも外から見
れば重なり合って三層に見えた。残念ながら姫路城のような五層の天守は
福岡城には建てられなかった。しかし「天守」代用として十分に機能的な、
黒田如水の福岡城らしい建物があったのである。

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