源平合戦の虚実・潮から見た『平家物語』

 NHK大河ドラマ「義経」が始まった。わたしたちは義経の像を『平家物語』
によって作ることが多い。『平家』こそ日本古典の最高傑作である。
『平家物語』には名場面が多い。
「沖には平家、舷(ふなばた)をたたいて感じたり、くが(陸)には源氏、箙
をたたいてどよめきけり」、とどろき渡るその音を耳にしているかのごとき
臨場感がある。「波の下にも都の侍ふぞ」八歳の幼帝・安徳天皇の末路に、聞
くものは涙する。しかし因果なことに歴史家は陶酔できない。『平家物語』は
琵琶法師の語りである。琵琶法師は聴衆からの喜捨、施しで生活する。聞
くものが感動しなければ喜捨は得られなかった。聴衆の反応を見ながら、少
しずつ語りを変えていく。『平家物語』はどこまで史実をゆがめているのか。
そんなことばかり考える。
 まずは義経の宿敵、能登守平教経の死んだ場所である。かれは『吾妻鏡』
寿永三年(一一八四)二月の記述に、一の谷で安田義定に討ち取られたとある。
『玉葉』(九条兼実の日記)二月十九日条に、京都に運ばれた十ほどの
平氏首級の中に、教経の首も確認されたとある。教経のことだけがわざわざ記
されたのは、その生死が話題になっていたからだ。もし一の谷で教経が死
んでいたのなら、八島以降に登場する教経は架空の人物で、佐藤継信がかれに
射殺された話も、教経に追いつめられて義経がほかの船に跳び移った話
(「八艘跳」)も、クライマックスを構成する「能登殿最後」なる巻自体も虚構
となる。
 ところが『醍醐雑事記』という記録に、一年後の三月、壇ノ浦で討ち死にした
人物が列挙されており、その中に「自害」として教盛、知盛にならび
「能登守教経」がみえる。平家も源氏も、教経の生死に関して情報戦、宣伝戦を
行った。ともに「討ち取った」、「いや現にここに生きているではないか」と
宣伝し、それらを受けてそれぞれの記録ができていった。文学の世界では、平家
きっての剛弓の主は、最後まで戦って、平家とともに滅びなければ、完成
しなかった。
 寿永三年、八島に向かった源義経は二月十六日丑の刻(すなわち深夜二時)に
摂津渡辺(淀川河口)を出発、大風のなか、明くる卯の刻(朝六時)、
阿波勝浦に到着したとある。このことは『平家物語』以外に『吾妻鏡』にも記述
がある。旧暦は月の動きを基準とし、月齢、潮の動きに一致する。十六日は
「いざよい」、大潮である。海路百二十キロをわずか四時間で渡った。この日は
グレゴリウス暦(現行西暦)の日に換算すると、4月6日に相当する。ここに
大きな問題は、春の大潮では干潮は必ず午前・午後の
1時ごろ、満潮は朝・夕の7時ごろになることだ。丑の刻の出発では満ちてくる
逆潮に向かうことになる。進むことはできない。
 『吾妻鏡』は「暴風を凌ぎ」とし、『平家物語』は順風ながらも「大風大波」
とした。ただ『玉葉』によれば、京都の天気は十六日天晴、十七日微雨、
十八日天晴で、とくにはげしい嵐や雨の気配はない。ふっても春雨程度、
いくぶん北風は強かったが。
 壇ノ浦合戦は三月二十四日(グレゴリウス暦・現行西暦に換算すれば5月13
日)である。旧暦三月二十四日は月齢23、小潮で、仮に2004年の
旧暦三月二十四日をみれば、西暦5月12日に相当する。寿永三年とは一日
ちがいである。そこでこの日の潮位表(気象庁ホームページ)を当
てはめてみた。午前4時半、午後3時半過ぎが満潮、午前10時が干潮である。
関門海峡は余りに狭小なため、満潮時に周防灘側が高くなって西流、つまり
日本海(響灘)側への流れになる。干潮には東流になる。静水時間は満潮・干潮
からかなりずれる。
 合戦の開始については『平家物語』に「卯刻(朝七時)に矢合」
とあるけれど、『玉葉』元暦二年(一一八五)四月四日条に引用された義経の
報告によって、正しくは「自午正、至哺時」すなわち正午から申の刻
(夕方四時頃)まで行われたことがわかる。開戦時正午は東流の終
わりかけであった。最速で時速一六キロメートルもあった潮の流れは、およそ
半分に減じていた。二時間後、未の刻に静水となるが、以後急な西流が始
まった。西から東に向かう平氏には、当初の潮流は有利であったが、静水時には
多勢に押され劣勢となり、西流に転じた潮汐に、ついに逆転はかなわなかった。
戦闘可能であったのは静水時の前後の短時間だけ、あとはひたすら流
されるだけだった。干満差が最小となる小潮の日(二十四日)の静水時間帯が
決戦の時だった。激しい潮の流れにどうして合戦が可能であったのか。
かねてより疑問に思っていたが、やっと理解できた。航行可能な時間
にいっぽうが対岸に渡ろうとして合戦の開始になり、最後の戦いは決着
がついた。
 『平家物語』は阿波渡海でも、壇ノ浦でも歴史的な時間を変更し、粉飾した。
夕方よりも、嵐のなかで深夜に出発したほうが、迫力があったし、正午の
合戦開始では壇ノ浦の特殊な潮流をいちいち説明しなければならない。早朝
からの戦い開始ということにした。史実からは次第に遠ざかったが、耳に心地
よい文学作品は、かくして完成した。


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